/ほんとうに若い人は、わざわざ若者ぶったりしない。あなた自身が老いを自覚して、むしろ自分の老いを受け入れ、自分の未来、つまり、自分の死、こそ見据えて、残りの時間を考えるべきだろう。/
世阿弥の『風姿花伝』にこうある、老人を演じるには、若作りをせよ、と。そう、若い人は、わざわざ若者ぶったりしない。若者ぶるのは、老人の特徴だ。
とくに団塊世代、バブル世代。もはや髪も薄く細くなっているのに、むりやり真っ黒に染めるから、地肌が透けて、よけい痛々しい。もはや足の肉も削げているのに、風帯ばかりのスーツやスポーティなパンツを履くから、足回りがヒラヒラしている。おまけに、わずかな段差でも、足元がおぼつかず、いちいちよろける。そのくせ、数をカサに着て、言うことだけは、いつもでかい。
ああはなりたくはない。老後の生活費、医療費など、いろいろ不安はあるが、60も過ぎれば、ある意味、もうゲームオーバーで、勝負はついてしまった。そこから「挽回」など、ありえまい。せいぜい生活も、体力も、どれだけ長く現状維持するか、のみ。本来、無理をして、若ぶっている余裕などあるまいに。
後継者としての息子や娘、忠実な側近の重役も、それはあなたが生きていればこそ。あなたがいなくなった後、社内はともかく、世間からすれば、甘やかされてきただけの苦労知らずのバカ息子、バカ娘。決断力もなく右往左往する肩書だけの軽い重役。いや、あなたの友人、知人も、順に次々とこの世を去って行く。残されるか、先に逝くか、ただそれだけのこと。
まして、若い子がちょっとほほえんだくらいで、オレに気がある、などと勘違いして、髪をひっつかんだり、首元で臭い吐息を吹きかけたり。挙げ句は、なれぬSNSで、中学生のようなポエムを送りつける。飲み会を断っただけで逆ギレして報復人事を振りかざす。だが、よく考えてみろ。向こうからすれば、あなたは、完全な、じじい、ばばあ、だぞ。会社や学校には、仕事や勉強に来ているだけで、老人の御機嫌取りまで職務ではない。
趣味サークルやボランティアですらそうだ。どこぞの隣国でもあるまいに、自分だってまだ新人のくせに、ひとの年齢を聞いてまわって、相手が自分より一つでも年下となると、先輩風を吹かす。そのうえ、ひとの世話をするわけでもなく、むしろまわりが自分の面倒を見てくれて当たり前と思っている。だれかがなにかしてくれても、お礼も言わない、感謝もしない。だから、若い人がどんどん離れていって、だれも寄ってこない。気づけば、もう御達者クラブ。というか、あの世逝き乗り合いバスの待合室。
ようするに、面倒くさい。そばにいるだけで厄介。人ごとではない。さしてなにかができるようになったわけでもないのに、ただなんとなく一年を生きながられていれば、一年の歳を取る。そして、押し出しところてんのように、いつの間にか上がいなくなって、下には若者たちが入ってくる。自分は同じつもりでいても、立ち位置はとっくに変わっている。当然、みずからの身の処し方も変えるべきなのだが、まだまだお若い、などと言われて、その気になる。だが、それは、お世辞だ。ほんとうに若い人に、そんなことは言わない。
哲学
2024.11.24
2024.12.02
2024.12.09
2025.02.01
2025.02.17
2025.03.31
2025.04.08
2025.05.02
2025.06.07
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
