​十字軍:西洋と東洋の正面衝突(L13)大学標準哲学教程

2025.07.16

ライフ・ソーシャル

​十字軍:西洋と東洋の正面衝突(L13)大学標準哲学教程

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ユダヤ人(セファルディム、ローマン、アシュケナジム)やシーア・イスラム諸派、クルド人、グノーシス・カタリ教徒、ドルーズ(ムワヒドゥン)教徒、現代でも紛争の種となるこれらの人々は、中世の東西文明の軋轢から生まれた。/

「文化もまた力だ。とく偉大なローマ帝国の遺産は魅力的だった」

アッバース朝は、イベリアのウマイヤ朝(756-1031)、北アフリカのファーティマ朝(909-1171)、そしてイランのブワイフ朝(934-1092)によって衰退したため、アッバース朝の首都バグダードに代わって、ハムダーン朝のアレッポの宮殿がイスラム文化の中心になりました。勇気と機知に 富んだ詩を詠んだ詩人アル・ムタナッビー(915-65)や、天文測量用アストロラーベを発明し、マリアム・アル・アストルラビヤとも呼ばれる女性天文学者アル・イジュリヤ(10C、)など、多くの著名人がこの地で生まれました。また、イベリア・ウマイヤ朝は、首都コルドバのザフラ(花)宮殿に大学を設立し、40万冊の蔵書を持つ図書館を擁して、ヨーロッパからも多くの学生が集まりました。

「ところで、当時のヨーロッパの状況はどうだった?」

ポルノクラシーの姦婦マロツィア(C890-937)は獄中で殺害され、その孫であるヨハネス十二世(937-th55-64)は無謀に教皇領の拡大を図って、逆にイタリアの諸侯の攻撃を受けました。彼はハインリヒ一世の息子、東フランク王オットー一世(912-th36-73)に助けを求めました。しかし、その見返りに、962年に彼を「神聖ローマ皇帝」に戴冠させなければなりませんでした。オットー一世は、聖職者を官僚として活用し、ヨーロッパの修道院統治を全面的に掌握しました。また、彼は、息子をビザンツ帝国の王女と結婚させ、マケドニア・ルネサンスをイタリアに導入しました。

「宗教支配の暗黒時代の終わりが見えてきた」

北のノルマン人ルーシと西のブルガリアは965年にハザール帝国を滅ぼしました。改宗したテュルク系カライ派ユダヤ人は、アシュケナジムとして西のハンガリーやスラヴ諸国へ逃れました。北アフリカのイスマーイール・シーア派ファーティマ朝は、969年にエジプトを征服し、新たな首都カイロを築き、南シリアへと勢力を拡大しました。しかし、北アフリカは983年にスンニ派のズィル朝(972-1148)が建国して、独立しました。

「彼らは、パンドラの箱を開けてしまったみたいだ」

ローマ時代から、ケルンにはユダヤ人コミュニティが存在していました。イベリアのイスラム教徒に対抗するため、財政支援を必要としていたフランク王国も、彼らを優遇しました。さらに10世紀には、イタリアとフランスから多くのユダヤ人がライン川流域に移住し、長距離貿易を掌握しました。特にマインツは、ユダヤ教の学校であるイェシーバー(ユダヤ教学校)があり、彼らの文化の中心になりました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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