​十字軍:西洋と東洋の正面衝突(L13)大学標準哲学教程

2025.07.16

ライフ・ソーシャル

​十字軍:西洋と東洋の正面衝突(L13)大学標準哲学教程

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ユダヤ人(セファルディム、ローマン、アシュケナジム)やシーア・イスラム諸派、クルド人、グノーシス・カタリ教徒、ドルーズ(ムワヒドゥン)教徒、現代でも紛争の種となるこれらの人々は、中世の東西文明の軋轢から生まれた。/

中央アジア北部のテュルク系遊牧民は、イスラム教に改宗し、カラ・ハン朝(840-1212)としてシルクロードを支配しました。しかし、極東のフェルガナ盆地では、ペルシアのイスマーイール派シーア派、インドのバラモン教、中国の浄土教の影響を受けて、唯一神と輪廻転生を信奉するムワヒドゥン(統一)教という新たな異端信仰が生まれました。さらに、イランには世俗的なペルシア人サッファール朝(861-1002)が出現しました。イスラム教を信奉するペルシア人は、サマルカンド周辺のテュルク系遊牧民を掃討し、サッファール朝とも対立し、アッバース朝から自治権を与えられて、サーマーン朝(875-999)を建国しました。サーマーン朝はテュルク系敗戦奴隷を宗主国に送りましたが、アッバース朝は彼らの戦闘能力を評価し、マムルークという直轄私兵として利用しました。同じころ、シリアのクルド人は、人種や民族に関わらず高潔な人物がカリフになるべきだと考え、独自のハムダーン朝(892-1003)を建国しました。

「アラブのアッバース朝は、ペルシアや中央アジアの統治に苦戦した」

ブルガリアは、長年、ビザンツ帝国の支配下にありましたが、シメオン一世(864-th93-927)は、逆にビザンツ帝国に侵攻し、894年に皇帝を名乗りました。さらに、ビザンツ帝国東方キリスト教やハザール帝国カライ派ユダヤ教に対抗すべく、彼はグノーシス派キリスト教であるボゴミル主義を採用しました。

「グノーシス主義はヘレニズム的な二元論で、ユダヤ教の創造主を、私たちをこの世に閉じ込めた悪魔として憎みました。ローマ教会と東方教会の両方からも異端とみなされましたが、中立を保つのには都合が良かったのでしょう」


13.02. 文化競争:10世紀

北ドイツのザクセン公国は、北からのノルマン人、北東からのスラヴ人、東からのハンガリー人の侵略に苦しんでいました。しかし、名ばかりの東フランク王は無力で、公は単独で彼らを撃退しなければなりませんでした。919年、ザクセン人でありながら、ハインリヒ一世(876-th919-36)は東フランク王国の王となりました。

「こうして、家柄より実力が重視される時代が始まった」

ビザンツ帝国皇帝コンスタンティノス七世(905-th913-59)は、ノルマン人ルーシ、ザクセン東フランク、イベリア・ウマイヤ朝と外交を築き、ブルガリア帝国を押し戻しました。「ポルフィロゲネートス(紫の皇宮生まれ)」と呼ばれた彼は、並外れた教養人で、書物と学者に囲まれ、歴史や自然を学び、美術工芸品を収集し、また文章を書いたり絵を描いたりもしました。皇后もまた教養が高く、彼と共にそれを楽しみました。こうして、彼らは学者や芸術家のパトロンとして「マケドニア・ルネサンス」を牽引しました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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