いかに西部は失われたか:ONCE UPON THE TIME IN THE WEST (『ウェスタン』1968)の時代

2023.07.02

ライフ・ソーシャル

いかに西部は失われたか:ONCE UPON THE TIME IN THE WEST (『ウェスタン』1968)の時代

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/西部開拓というと、西部劇で見るように、「インディアン」の襲撃を受けながらも、人々が西へ西へと押しかけ、太平洋にまで至って終わった、かのように思うかもしれない。だが、西部劇に出てくる無法の「西部」は、アリゾナ・ニューメキシコ準州での、1880年前後のほんの数年の出来事だった。/


無法の「西部」

アリゾナのスコッツデール砦(現フェニックス市)には、西岸部ロサンジェルスや中西部サンタフェから多種多様な敗残者たちが流入。人口は数千人に増えていった。かくして、1876年、その北、水のあるロッキー山脈の標高2000メートルの谷あいに、東西を繋ぐ駅馬車の中継拠点として小さなフラッススタッフの町も開かれる。

しかし、この南、ユマ砦からツーソン砦、エルパソ、そしてサンアントニオ(旧アラモ砦)の間のソノラン&チフアフアン砂漠は、あいかわらず無人の地だった。こんなすさんだところにやってくるのは、肉牛の長距離移動を請け負うカウボーイとは名ばかり。実態は、人の牧場を襲撃する牛泥棒たち。そして、まともなところにはいられないならず者や無法者、西海岸や中西部、テキサスで失敗して落ちぶれた者ばかりで、それも徒党を組んで山賊、駅馬車強盗を生業に生きていた。そして、かろうじて井戸がある、わずかな町や牧場地の奪い合い。

この無法の地の東半、ニューメキシコは「サンタフェ・リング」の一味が支配していた。その中心は、リンカーンという町の雑貨店「ザ・ハウス」を経営する北軍退役軍人ローレンス・マーフィー。彼らは、無人の荒野を、新たに流入してくる農民や牧場主に法外な高額の分割で売りつけ、その返済支払が少しでも滞ると、ごろつきの「ザ・ボーイズ」を使って、強引に作物や牛を奪い取った。同地の軍人や政治家までリングの一味だったので、これに抗議してもムダだった。

1877年、カリフォルニアから来た実業家タンストール、カンザスから来た弁護士マクスィーン、テキサスの大牧場主チザムは、サンタフェ・リングの拠点「ザ・ハウス」の向かいに新たな雑貨店を開いて挑発した。また、サンタフェ・リングの「ザ・ボーイズ」に対抗するため、ビリー・ザ・キッドなど牛泥棒の若者を集めて「レギュレーターズ(用心棒)」を作って、身を守った。しかし、翌78年2月、リングは、タンストールの馬を借金のカタとして押収する裁判所書類を捏造。これに抗弁したタンストールは射殺され、両派の間で「リンカーン戦争」が勃発した。この結果、81年夏までに関係者のほとんどが死んだ。

また、ツーソン砦の南東、トウームストーン、墓石などという不吉な名前の町でも、事件は起こっていた。砂漠の真ん中。流浪するカウボーイたちが密会し、メキシコからの密輸品や盗んできた牛の群れを取引する場所。ここに、1879年、中西部のドッジシティ(サンタフェ・トレイルの旧ドッチ砦)でしくじった保安官、ワイアット・アープ兄弟が赴任し、賭場兼売春宿を開く。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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