いかに西部は失われたか:ONCE UPON THE TIME IN THE WEST (『ウェスタン』1968)の時代

2023.07.02

ライフ・ソーシャル

いかに西部は失われたか:ONCE UPON THE TIME IN THE WEST (『ウェスタン』1968)の時代

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/西部開拓というと、西部劇で見るように、「インディアン」の襲撃を受けながらも、人々が西へ西へと押しかけ、太平洋にまで至って終わった、かのように思うかもしれない。だが、西部劇に出てくる無法の「西部」は、アリゾナ・ニューメキシコ準州での、1880年前後のほんの数年の出来事だった。/

ただ、アーカンソー川上流、大平原のただ中に33年に作られた米国人猟師たちのベント補給所では、インディアン(シャイアン族、アパッチ族、コマンチ族など)との間で平和な交易が行われた。また、米国人は、独立以来の混乱が続いているメキシコの東沿岸部テキサス地方にも進出して、アラモ砦を築き、1836年、新教徒のテキサス共和国として独立してしまう。

侵略してくる米国人と戦うためには、米国人と同様に、大量の銃と馬が必要だ、とインディアンたちは考えた。同じく東部を米国人に侵略されているメキシコが、これに協力した。西海岸のロサンジェルスからリオグランデ川を渡った中西部への出口、サンタフェに通じる「スパニッシュ・トレイル」によって、メキシコ人は銃と馬、そして奴隷(黒人や異部族、ときには米国人)を供給し、インディアンの綿織物などを交換した。また、彼らはしばしば協力してテキサスの米国人の牧場や農場からも物資や奴隷を略奪した。

このころ、東岸部には、ピルグリムの清教徒(カルヴァン系)やジャコバイトの旧教徒のほか、英国教会から分離独立したバプテスト、清教徒革命で追われて来たクエーカー教徒、ツヴィングリ系の再洗礼(アナバプテスト)派(アーミッシュ、メノナイトなど)、などの諸派が数多くやってきていた。これらもまた、アパラチア山脈を越えて中西部に入り進み、孤立する開拓地コミュニティにあって、本部や組織よりも直接の霊感を重視した。

そんな中で、五世紀にすでに米国に来ていた預言者モルモンから直接に使命を受けたというジョセフ・スミス・ジュニアの完全米国オリジナルの復古保守的新興宗教、モルモン教が、中西部北部で爆発的に信者を集め始める。彼らは、なんでもありの新大陸のモラル崩壊には批判的で、一夫多妻や自衛武装、嗜好品禁止を含め、厳格強力な家父長制社会の回復を主張した。この批判的で戦闘的なコミュニティは、他の人々の激烈な反発を招いて、しばしば暴動となった。


ロッキー山脈を越えて

1838年、先の「移住法」に基づいて、中西部のチェロキー族ほかのインディアンたちをミシシッピー西側、オクラホマに強制的に追いやる。この「涙の道」で、一万五千のチェロキー族の三分の一が死んだ。しかし、自主的にはるばるミシシッピー流域までやってきた人々も、大いに失望していた。たしかにそこでは、広大な農地、放牧地は得られた。だが、洪水や竜巻など、自然災害だらけで、こんなひどい土地にむりやり移住させられて怒り狂うインディアンたちも襲撃してくる。そして、ある日突然、数百億匹を越えるロッキー飛びバッタがやってきて、すべての農地農場の穀物を食い尽くしてしまう。おまけに、湿地の蚊が媒介する風土病の寄生虫、マラリアが人々の全身を蝕み、慢性化して苦しめた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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