中世から近代へ:文明論の視座から

2021.09.26

ライフ・ソーシャル

中世から近代へ:文明論の視座から

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/コロナとともに、「近代」が終わろうとしている。しかし、それは何だったのか、次はどうなるのか。それを読み解く鍵は、中世が終わり、近代が始まったころの世界の大変革を理解することにある。/

 彼はこの記録によってコペルニクス(1473~1543)の地動説を実証しようとしましたが、しかし、「年周視差(太陽を中心とする地球の公転に対応する、恒星の見える角度の差)」を検出することができなかったために、むしろ[不動の地球を中心として、恒星や惑星の公転の中心である太陽が公転している]という複雑な天動説を考え出さなければなりませんでした。そして、九七年の国王の死去後は、穏健な神聖ローマ皇帝ルドルフ二世に招かれて、彼は現チェコのプラーハに移り、宮廷占星術師として天文観測を再開しますが、数年にして急死してしまいます。


地動説の定着:ガリレオとケプラー

 イタリアのピサに生まれたガリレオ=ガリレイ(1564~1642)は、メディチ家トスカナ公コジモ一世(1519~74)が改修したピサ大学で医学を、トスカナ大学で数学を学び、八九年、二五歳でピサ大学の数学教授になります。そして、彼は[すべての物体は等しい速度で落下する]という発想を得て、ピサの斜搭で実験を行ったりもしたようです。しかし、この発想は、当時の[重い物体ほど速い速度で落下する]という「常識」の反発を買い、九二年には、イタリアのベネチアの西隣都市のパドウァ大学に移って、力学の研究を続けます。

 また、一六〇九年、彼は望遠鏡の発明について伝え聞くと、自分で工夫してこれを作成し、天文観測に利用しました。この結果、彼は[月面はでこぼこである]ことなどを発見してしまい、これも、[神が創造した天体は完全な球である]という「常識」の反発を買い、一〇年には、同イタリアのフィレンツェに移って、メディチ家トスカナ公の主任哲学・数学者となり、天文学などの研究を続けます。

 しかし、さまざまな天文観測の結果、しだいに彼は《地動説》の確信を強めて行きます。そして、このために、一六年、彼は宗教裁判にかけられ、地動説を放棄するように訓告されます。しかし、彼はその後も研究を続け、三二年、『天文対話』において、ふたたび明確に地動説を主張したため、ローマの異端審問所に召喚され、翌年、自説を撤回させられてしまいます。このとき、彼は「それでも地球は動く」とつぶやいた、と伝えられています。この後、彼は死ぬまでフィレンツェ郊外の自宅に幽閉されてしまいましたが、この間にも、彼は〈慣性の法則〉などを発見し、三六年の『新科学対話』で発表しました。

 また、南ドイツの貧しい家庭に生まれたケプラー(1571~1630)は、給費生としてチュービンゲン大学で神学を学びましたが、地動説を知って天文学に関心を持ち、また、太陽崇拝的な新プラトン主義の影響を受け、高校の数学教師をしながら、九六年、『宇宙の神秘』を発表し、思弁的に太陽を中心とする惑星の配列を論じ、ティコ=ブラーエやガリレオに知られるところとなりました。九九年、新教徒追放令によって、彼は、新教徒が強く、皇帝ルドルフ二世にブラーエが保護されていたプラハに移り、ブラーエの助手になります。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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