『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(1)

2021.09.09

ライフ・ソーシャル

『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(1)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/

 このように、夢窓疎石もまた、禅僧として以上に天才的な寺院デベロッパーだった。彼は、田畑にもならないような無価値の山中や川縁の辺鄙な土地を禅の修養に最適とばかりに手に入れ、ここに寺院と庭園を成すことで、付加価値を成し、これを高値で売り払って、次の開発資金とし、しだいに大きな仕事を手がけるようになっていった。

 『徒然草』124段で兼好が賞賛している是法法師の経歴も興味深い。もとは天台僧ながら、浄土宗鎌倉光明寺の円道に師事し、天台宗京都青蓮院(しょうれんいん)門跡(もんぜき、皇族が住職の寺)や祇園社(延暦寺所属)の坊官となり、その福井や愛媛、丹波などに散らばる寺社領荘園の管理を代行して、その利得でみずからも広大な土地を買収し、地主として賃貸して財をなし、兼好とともに歌人としても活躍している。

 兼好もまた、出家直後に山科小野荘を購入している。しかし、ここが鴨長明隠捨の日野の隣村であることを考えれば、当初は彼自身がここに遷り住み、長明同様の隠捨生活をする気だったのかもしれない。だが、この荘園も、1322年には、院政から隠居したばかりの後宇田上皇にゆかりのある龍翔寺に、買値より安く、売り寄進してしまい、本人は、在所六浦称名寺の本山、京都仁和寺の南東の池上村に住み、歌人として活躍し、交際を拡げるようになる。

 兼好が私度僧であるにしても、聖として念仏布教や浄財集めをした形跡は無い。むしろ、金沢家や堀川家、二条家の広い人脈と交際を背景に、重源や是法法師などと同様、上層の貴族や武家の荘園の寄進を斡旋仲介し、いずれその功績によって、どこぞの官僧となることを望んでいたのだろう。実際、当時、貴族や武家は、全国各地に荘園を持つていたが、不在地主であるために、現地の豪族や農民との紛争が絶えず、子女を官僧とするために、また、現地の紛争を抑え込むために、寺社寄進がさかんに行われていた。

 くわえて、『徒然草』には、第10段、11段、27段、32段、43段、104段、137段、177段、224段など、やたら庭の風情を論じる段が多い。建物の造作(33段など)や樹木の蘊蓄(139段など)を入れれば、さらに増える。また、第51段では、大井川の水を水車で引く話も出てくる。当時、写実的で名所図会を兼ねた『一遍上人絵伝』(1299)に見られるように、過剰な木材需要のせいで、ほとんどがハゲ山だった。(『都名所図絵』(1780)だと、江戸期半ばになっても、比叡山にさえ、まばらにしか木が無い。)とくに京都市中は、戦乱や火災によって廃寺跡がひどく荒れていただろう。夢窓疎石を先達として、兼好もまた、是法法師のような寺領の転売や寄進の斡旋をするに当たり、作庭植樹によって付加価値を付けていたのかもしれない。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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