『徒然草』とその時代

2020.02.19

ライフ・ソーシャル

『徒然草』とその時代

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/これまで吉田兼好は、伝承をそのままに受け売りして、吉田神社の神官の出などとされてきた。ところが、慶応の小川剛生教授が『兼好法師』(中公新書)で史料を洗い直すと、まったく違う実像が見えてきた。/

このころ、兼好(四二歳)は、邦良親王(二五歳)に気に入られ、何度か歌を召されている。また、後醍醐(三九歳)の命で二条為定(1293~60、三二歳)が撰じた『続後拾遺集』(一三二六完成)にも、兼好の歌が一首が入っている。この歌集は、形骸化し凡庸化する二条派の衰えを隠しようもないが、足利尊氏をはじめとして台頭する武士六〇名の作も採られている。

二六年三月、執権北条高時は、病気を理由に二二歳で出家してしまい、内管領長崎高資は、六波羅探題南北別当だった金沢貞顕(四八歳)を第十五代執権に据える。翌四月、邦良親王(二六歳)が死去。このため、幕府の判断によって、持明院統の故後伏見(93代)の実子、量仁親王(かずひと、後の北朝光源天皇、1313~北天31~廃33~1364、一三歳)が立太子。

後醍醐(四〇歳)は、日野俊基らとともに再び倒幕の準備を始め、中宮御産祈祷と称して伏見の醍醐寺の座主、文観(1278~1357、四八歳)に幕府調伏呪詛を行わせる。また、強大な僧兵を抱える東の延暦寺や奈良興福寺へみずから赴き、二七年には実子の護良親王(1308~35、二一歳)を天台座主に据えた。

三〇年、金沢貞将(二八歳)が六波羅別当を解かれ、関東に戻る。後醍醐(四四歳)はいよいよ倒幕の準備に邁進。しかし、かねてから自重を求めていた側近の吉田定房(1274~1338、五五歳)は、翌三一年四月、後醍醐を案じ、倒幕計画を六波羅に密告。日野俊基や文観(五三歳)などが次々と捕縛される中、八月、三種の神器を持った後醍醐(四五歳)が女装して京都を脱し、木津川の笠置山で挙兵。これに延暦寺の護良親王(二六歳)や南河内の悪党(反幕府武将)楠木正成(1294?~1336、三七歳位)も呼応して挙兵。ついに五七年にもわたる南北朝の争乱が始まってしまう。一方、兼好は、『徒然草』の筆を折り、以後、約百年、その草稿の存在は人目から封じられてしまう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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