『徒然草』とその時代

2020.02.19

ライフ・ソーシャル

『徒然草』とその時代

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/これまで吉田兼好は、伝承をそのままに受け売りして、吉田神社の神官の出などとされてきた。ところが、慶応の小川剛生教授が『兼好法師』(中公新書)で史料を洗い直すと、まったく違う実像が見えてきた。/


兼好の時代

兼好の父は関西の出ながら、関東の北条家傍系の金沢家の周辺に仕えていた。しかし、一二九九年に亡くなり、卜部兼好(うらべかねよし、1283?~1358?、十六歳)は、母とともに京都に戻っていた。おりしも一三〇二年、金沢貞顕(1278~六南1302~07~六北11~14~執26~26~33、二四歳)が六波羅探題南方別当(長官)に就く。兼好(十九歳)は、亡父の縁で、貞顕に京の案内などをしたらしい。金沢貞顕はまた、〇五年、京に来たこの機に、庶子の顕助(けんじょ、1294~1330、一一歳)を、真言宗仁和寺真乗院の院主に送り込む。

〇八年、大覚寺統の後二条天皇(94代、二三歳)が急死。持明院統の伏見上皇(92代、四三歳)の実子で、後伏見上皇(93代、二〇歳)の弟の花園天皇(95代、1297~天08~上18~48、一一歳)が即位。これと同時に、本来ならば大覚寺統の後二条天皇の実子、邦良親王(1300~26、八歳)が立太子されるべきだったが、重度の鶴膝風(変形性膝関節症)で立つこともできなかったために、やむなくとりあえず後二条の弟の尊治親王(後の後醍醐、96代、1288~天1318~39、二〇歳)が皇太子とされた。

一〇年ころ、兼好(二七歳)は、滝口武士かなにか、侍品(さむらいほん、せいぜい六位)になる。しかし、彼は、すぐに出家し、比叡山に学んだ。ちょうど金沢貞顕(三三歳)が六波羅探題北方(南方より上)別当としてまた上京してきたので、下山した兼好(二八歳)もまた、六波羅のあたりに居を構え、不動産仲介業を営むようになる。

ところで、一四年、内大臣堀川具守(とももり、1249~1316、六五歳)は、娘の基子(1269~1355)が大覚寺統の後宇田天皇(91代)の宮人として後二条天皇(94代)を生み、その外祖父となったものの、子の具俊が〇三年に、孫の後二条が〇八年に亡くなり、また、持明院統の後伏見天皇(93代)の女御代になっていた次女の琮子も、三年で後伏見が退位させられてししまったために、入内を逸して実家に留まっており、具俊の子、つまり孫の具親(1294~?)を養子に入れて自分の後継としたものの、琮子の行く末を深く案じていた。

このころ、じつは、亡き堀川具俊の未亡人、つまり具親の母が、金沢貞顕の子、仁和寺真乗院主顕助(二〇歳)と暮らしていた。そこで、一四年、堀川具守(六五歳)と具親(二〇歳)は、六波羅南別当の金沢貞顕(三六歳)に、娘のだれかを琮子(二六歳)の猶子にもらえないか、相談を持ちかけている。このことを縁に、金沢家に係わる兼好(三一歳)もまた、堀川家に出入りするようになったようだ。同年、西華門院(堀川基子)が勧進した後二条(大覚寺統)七回忌追善和歌に兼好も出詠している。つまり、このころから、兼好は、歌人としても知られるようになってきた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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