ルネサンスとバブル国家

2018.07.17

開発秘話

ルネサンスとバブル国家

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/15世紀のヨーロッパは、ルネサンス文化の花が開いた、というような温和な時代ではない。それはむしろ、官僚制や常備軍で長期経営を見据えた近代の絶対政国家と違って、欲得で縁戚を拡大し、交易の収益を傭兵に注ぎ込んで周辺侵略を重ねる独裁者たちの国々が、芸術などにも放埒に資産を費やし、財政的にも自滅破綻していった一種のバブルだ。/

一方、フィレンツェでは、33年、銀行業で成功し、ブルネレスキやドナテッロのパトロンとなっていたメディチ家のコジモ(1389~1464、45歳)が街を追放される。が、早くも翌年には帰還し、以後は表立たず、選挙制を利用して背後から街を支配するようになる。ヴェネツィア商家出身の当時の教皇エウゲニウス四世(1383~教皇31~47)は地元ローマのコロンナ家と対立して、フィレンツェに逃げ、コジモが支援。オスマン帝国に脅かされる東ローマ帝国皇帝が支援要請に訪れたのを機に、39年、フィレンツェに公会議を移し、東西教会の合同を図る。

37年、皇帝ジギズムントが死去、ルクセンブルク家が断絶。娘婿のハプスブルク家アルブレヒト二世が継ぐが、これも39年、オスマン帝国と戦って、ハンガリーで戦死。その死後に息子が生まれ、縁戚のフリードリヒ三世が後見人に選ばれるが、その理由は「愚鈍」で諸侯が御しやすかったから。

ところで、地中海北岸では、「レコンキスタ」によってできたイベリア半島のアラゴン王国が勢力を西に伸張し、サルディニア・コルシカ両島、シチリア島まで支配していた。35年、フランスの前のカペー王家系のナポリ王国も断絶。フランスのヴァロワ王家の進出に対し、アラゴン王国が争い、これにミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェが与し、43年には、イタリア半島南半をも獲得。また、45年、マインツの企業家グーテンベルクが、それまでの筆写に代わる活版印刷の技術を完成し、印刷所を始める。これは後に宗教改革や市民革命において絶大な威力を発揮することになるが、当時はまだあまり理解を得られなかった。


15世紀後半

1450年、傭兵隊長のスフォルツァ家フランチェスコ(1401~66、49歳)がミラノ公となり、その息子の色黒ルドヴィコ(1452~1508)が繁栄を築く。52年、とりあえずフリードリヒ三世が皇帝となり、ポルトガル王女と結婚。また、53年、オスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼした。フィレンツェのコジモは、亡命者を迎え入れ、フィチーノ(1433~99)にプラトン全集を翻訳させる。一方、愚鈍で知られる皇帝フリードリヒ三世は、なにもしなかった。同じ1453年、フランスは百年戦争を終え、旧中フランク王国諸邦を含め、ノルマン勢力によってかってに独立を強めていた臣下の公国や伯国の支配を取り戻し、国家としての統一を推し進めていく。

67年に即位したブルゴーニュ無謀公シャルルは、拡大するフランス王国に対し、傭兵で武装を強化し、独立貴族同盟を作って対抗。スペインやアラゴン=ナポリと同盟。さらに、皇帝フリードリヒ三世にも接近するが、愚鈍な皇帝は関心を示さなかった。一方、69年に後を継いだメディチ家御大ロレンツォは、フィレンツェの最盛期を謳歌し、多くの芸術家のパトロンとしてルネサンス文化を開化させる。たとえば、ボッティチェリ(1445~1510)を庇護し、ギリシア神話、それも女性の裸体美を描かせた(『ヴィーナスの誕生』c1483)。しかし、銀行業としては致命的に、メディチ家と街の会計分離が不明朗で、フィレンツェの積極的な外交や内政、芸術支援は、その街の財力をはるかに越えており、破綻は時間の問題だった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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