/大学で「哲学」が論じられる際、かならずと言っていいほど、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲルといった名前が挙がります。しかし、かれらは近代という、17世紀から18世紀にかけてのわずか二世紀の短い期間に現れた、たんに風変わりな思想家たちにすぎません。/
大学で「哲学」が論じられる際、かならずと言っていいほど、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲルといった名前が挙がります。しかし、かれらは近代という、17世紀から18世紀にかけてのわずか二世紀の短い期間に現れた、たんに風変わりな思想家たちにすぎません。にもかかわらず、この分野には、かれらを「専門」とする研究者が溢れており、教授たちもまた、かれらの思想以外をほとんど語ることなく講義を終えてしまうことがよくあります。
しかし、現代に生きる私たちがこうした思想に触れると、しばしば抵抗感や違和感を覚えます。それは、かれらの世界観がSFのように奇妙で妄想的に見えるからというだけでなく、彼らが安易に「神」を持ち出すからでもあります。とはいえ、そこで語られる神は、圧倒的な力で世界を支配する全能の神でもなければ、人類を慈しんで見守る思慕すべき神でもありません。むしろそれは、その意図は全く不可解でありながら、機械的に世界を動かし続ける「アルケー(根源的原理)」として機能する神です。こうした神学のあり方は、一般に「理神論(デイイズム)」と呼ばれます。
たしかに、哲学はつねに世界の「アルケー」、すなわち根源的原理を探求する試みです。中世神学もまた、この神秘的な「アルケー」としての「神」の本質を、さまざまな形で探究していました。しかし、近代の「哲学」は、新たな探究というよりは、中世にすでに頂点に達していた神学の影の下で、矛盾に満ちた現実を無理やり解釈しようとする、場当たり的な試みのように見えます。その意味で、近代の「哲学」は、神学の最後の、そして無益な悪あがきでした。それは、その時点ですでに、かつてみずからを定義づけていた哲学的探究の精神を失っていたのですから。
当然ながら、そのような試みは失敗に終わる運命にありました。しかし、まさにその失敗こそが、古代や中世の神学的世界観を崩壊させ、最終的に現代の私たちが、世界と直接向き合う真の哲学を取り戻すことを可能にしたのです。それは、天動説を実際の天文観測と整合させるために絶えず修正が加えられる中で、突如として優美な地動説が登場した経緯に似ています。この過程は、近代に見られた変容――政治における絶対王政から民主主義への移行や、西洋の優位からより広範な国際秩序への進化といった変化――と軌を一にするものです。
したがって、近代哲学から私たちが学ぶべきことは、個々の思想家が抱いていた、時代錯誤の「神」を中心とする特異な世界観ではありません。むしろ重要な教訓は、宗教的権威が衰退していく中でもなお、内面的にはその神学に囚われていた思想家たちが、いかにしてそこから脱却しえたのか、という点にあります。神が世界を創造したのではなく、存在するものはもちろん、存在しないものさえも、私たち自身が創造しているのです。近代哲学とは、まさにこの事実を自覚していく壮大なプロセスでした。
この問題は、たんなる過去の話にとどまりません。私たちは、世界とはこういうものだと思い込み――他の現実はあり得ないと信じ込み――、その現状に甘んじるほかはないと考えがちです。さらには、この秩序を乱す者は、思想的であれ物理的であれ、世界から排除されねばならない、とさえ信じてしまうのです。今日においても、だれもがみずから課した同調圧力に縛られ、身動きが取れなくなっています。かつて近代において古い世界観が内側から崩れ去ったように、現代の世界もまた、やがて変化していく運命にあります。近代の思想家たちを学ぶことを通じて、私たち自身の制約を打ち破るための鍵がどこにあるのか、考えてみようではありませんか。
哲学概論: 世界の歴史と思想 中巻 | 純丘 曜彰 |本 | 通販 | Amazon
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン。
哲学
2025.07.15
2025.09.05
2025.12.02
2025.12.11
2026.01.17
2026.02.08
2026.03.31
2026.08.27
2026.09.05
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る