/デカルトとパスカルの後、両者を組み合わせて、奇妙な世界観が流行した。我々も、モノも、まったくの無力で、そのつど、神が次の様相を再創造している、という。/
ゲーリンクス(1624-69)もヤンセンと同じくルーヴェン大学の教授でしたが、1658年にヤンセニズムを唱えたために職を失い、カルヴァン主義に転向してオランダのライデン大学に移りまし。彼はデカルト主義者であったにもかかわらず、デカルトの松果体説を否定し、1665年の『エティカ』で極端な独我論を主張しました。それによれば、心は外界になにかをするにはまったく無力です。だから、我々はもっと謙虚で敬虔であるべきでしょう。しかし、神の中にあって、その恩寵があらゆる機会に私たちの希望を実現してくれます。それが機会因論でした。
「それは、連続創造説を心だけでなく体にも適用する考え方ですね」
パリの修道士マルブランシュ(1638-15)は、アウグスティヌスの影響を受けたデカルト主義者でしたが、ヤンセニストではなく、むしろイエズス会に近い人物でした。彼は1674-75年に『真理の探求』を著しました。不完全である人間が完全の観念を持つのは、完全な神による、としたデカルトの議論と同様、私たちはリンゴではないので、リンゴの観念を持っていない。しかし、神がリンゴの感情を与えてくれるので、リンゴを認識することができる。しかし、私たちはそれを保持できない。そのため、リンゴを見るたびに、神は私たちの心をリンゴの感情に変様させる。つまり、リンゴの観念を保持するのは神だけで、私たちは神のリンゴのビジョンからリンゴの感情を得る、としました。
「プラトンの想起説の復活のようなものか」
それを拡張して、マルブランシュは、心だけでなく体もすべて無力で、たがいに関係なく独立しており、他のものはもちろん自分自身さえも自分では変えることができず、そもそも何に変わるべきかさえ知らない、と言いました。ただ神だけがそれらがどうあるべきかを知っており、そのつど、神のビジョンに従ってそれらすべてを変様させるのだそうです。
「セル画のアニメキャラクターのようなもので、別々のレイヤーに描かれており、自分では変化できず、たがいに影響もしない、ということですね」
これはゲーリンクスの単なる拡張のように見えましたが、ヤンセニストの老アルノーはマルブランシュを非難しました。永遠の観念と変化の公式が神にあらかじめ保持され、神がそれに従ってさまざまなものを変様させるのであれば、奇跡のような神の自由な恩寵はどこにあるのか? アルノーによると、マルブランシュは神を機械的自然の奴隷労働力に貶めた。実際、自然、動物、そして人間さえも無力な死んだ物質と見なしたように、マルブランシュは、神まで、人格あるものとしてではなく、理性そのもの、または普遍的な物理法則のようなもの見なしていました。
「ああ、それって理神論ですよね?」
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元テレビ朝日報道局ブレーン、東京大学卒。
哲学
2024.03.05
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2024.09.22
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。