試験に出る!いま熱い古代東西交流史(1)

2021.08.20

開発秘話

試験に出る!いま熱い古代東西交流史(1)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/

また、前十八世紀、セム語族アッシリア人が、アナトリアの錫を、トレインにしたロバに乗せ、小石だらけのシリア平原をバビロニアまで引いていく輸送で台頭。しかし、前1680年ころ、ここにもヤムナヤ人の一部が黒海東岸を南下してきて、アナトリアからアッシリア人を追放し、錫鉱山の利権を奪って、ハットゥシャ(ヒッタイト)人として建国。

ところが、その後、東のテュルク側からもフルリ人がイラン高原に侵入し、シリア北半にミタンニ王国を作って南のエジプトと同盟、北の印欧語族ハットゥシャや、エジプトとの間のシリア南半のセム語族アッシリアと対抗。しかし、ハットゥシャは、その隙間をぬって東南のメソポタミア方面に拡大し、前1595年、古バビロニア王国を滅ぼしてしまう。

同じ前1600年ころ、中国でも、まだ石器を使っていた夏朝(現洛陽市)を、青銅器を得た南の殷(現武漢市)が滅ぼす。敗れた夏朝残党は、黄河沿いに上流へ逃げ、モンゴル高原の南、陰山山脈山麓の鹿城(現包頭市)を拠点に、テュルク語族が支配するユーラシアハイウェイの中国側窓口となって、勢力を残存させ、後に匈奴となる。

このころ、中央アジアでも、バクトリアの錫で青銅の武器を得た印欧語族アーリア人が、前1500年ころ、ヒンデュークシュ高原カイバル峠を越えて、インダス河流域へ侵入。しかし、なんらかの理由で、当時すでにインダス文明は衰退してしまっていた。このため、侵入アーリア人の一部は、西のシスタン盆地に戻り、また、一部は、さらに東のガンジス河流域へ進み、バラモンとして原住民を支配するカースト制の諸国を開く。


鉄器時代の到来

前1400年ころ、ハットゥシャ新王国が鋼鉄を発明。鉄は、銅や錫とちがって、どこにでもあるが、ふつうには5%もの炭素を含み、高温でようやく溶かせても、脆い鋳鉄にしかならない。ハットゥシャは、銅鉱石の精錬で、そのケイ素を抜くのに鉄を使っており、偶然に炭素1%以下の柔軟で強靭な鋼鉄を作ってしまったのだろう。

その後、地元の石炭を使って鉄から炭素を抜く方法を考案するが、これには、ふつう1000度で燃焼する石炭を、鋳鉄の溶解温度1300度まで上げる必要がある。そこで、彼らは山脈上に炉を作り、エテジアンと呼ばれる東北からの強く乾いた夏の季節風が吹き込むようにして、高温を得る工夫をした。この技法は、門外不出もなにも、中央アジアから地中海へ吹き抜ける季節風を遮る半島のアナトリア高原だからこそ可能だった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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