試験に出る!いま熱い古代東西交流史(1)

2021.08.20

開発秘話

試験に出る!いま熱い古代東西交流史(1)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/

そもそも、○○人、という呼び方からして、人種や民族の問題ではない。それは、ある時代のある地域での生活形態にすぎない。いわばアメリカ人が多様な出身の人種を含んでいながら、アメリカ人らしい生活と気質を持っているようなもの。おまけに、彼らは、地域内部族間の対立で離散しやすく、また、どこでも周辺民と血統や文化を吸収混交していく。このせいで、彼らは、場所を遷ると生活形態も変わってしまい、名前も別のものになってしまう。


大水害と二つのプロト民族

しかし、このあたり、最初から砂漠だったわけもない。かつてはパミール山地やチベット高原からの豊かな雪解け水で、大きな湖の周囲に緑の野原、それどころか鬱蒼とした森が広がっていただろう。だが、伝説だと、前5600年ころ、北極海の氷河が融け、西シベリア低地や地中海・黒海からとてつもない量の海水が流れ込み、天山山脈とコーカス山脈だけを残して、この一帯すべてを水没させた。(それが、ノアの大洪水などの話のもとになった、とか。いまでもカスピ海は、北極海の記憶として、海水魚のニシンが泳ぎ、これをアザラシが食べている。)

時期はともかく、中央アジアや西域・モンゴルは、かつて巨大な内陸海になってしまったことがある。これがまずいのは、ただでさえ山(かつては海底)から岩塩が流れ出しているのに、内陸海が乾燥で干上がると、塩分濃縮によって植物が全滅し、土壌細菌さえも生きられず、死の砂漠になっていってしまうから。このあたりで素朴な農耕牧畜を営んで人々のほとんどがこの大水害で死滅し、生き残っても干魃と飢饉に襲われ、わずかに天山山脈やコーカサス山脈のあたりに移り逃げた人々だけが助かった。

この逃げた場所によって、その後の言語系統も大きく二つに分かれたようだ。天山山脈に逃げた人々は、プロトテュルク語で、膠着語(接尾格)でSOV文型。一方、コーカサス山脈に逃げた人々は、プロト印欧語(PIE)で、屈折語(格変化)でSVO文型。いずれにせよ、四大文明より前、前3600年ころからパミール山地西側・天山山脈北側、すなわちシル河源流、現キルギス、河西走廊の山麓扇状地、および、南ロシア平原、すなわち、現ポーランドから黒海北、ウラル山脈までの広大な地帯に、新たな人々が広がっていった。

プロトテュルク族は、いち早く文明化し、商業化した。彼らは、それぞれの山麓扇状地に、周辺のオアシス村の外牧民とともに大規模なオアシス都市文明を築き、周辺に農地を拡げるとともに、中国から中央アジアに至る交易路をつないでいく。牧畜の羊は、彼らにとって主要タンパク源であり、また、寒暖差の激しい高山山麓にあって必需品の毛皮や毛織物の元で、財産そのものだった。また、彼らは、輸送にはもっぱらラクダを使い、羊やラクダは都市大商人は、その飼育や運用を周辺の外牧民に委託した。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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