ミロス・フォアマン『アマデウス』を読み解く

2018.05.12

ライフ・ソーシャル

ミロス・フォアマン『アマデウス』を読み解く

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/天才に嫉妬した凡人、それどころか、神に愛された天才を引きずり倒した凡人の頂点、ということか。だが、このセリフも、あの信頼すべからざる偽悪家のサリエリが言ったとなると、真に受けるのはどうか。守護聖人は、神ではない。むしろ災厄において神へ取りなす者だ。つまり、ザラストロのような、人を神に繋ぐ者を言う。/

『アマデウス』という映画

もともとは『エクウス』(73)などで名高いピーター・シェーファー(1926~2016)の戯曲であり、1979年に初演された。これを『カッコーの巣の上で』(75)や『ヘア』(79)で知られるミロス・フォアマン(1932~2018)が1985年に映画化。アカデミー作品賞など、高く評価され、2002年には、ディレクターズカット版(180分)が公開されている。

話は、モーツァルト(1956~1791)の謎の死を、彼と確執のあった同業のサリエリ(1950~1825)の視点で描く、というもの。サリエリは、ウィーン宮廷楽長であり、ベートーヴェン(1770~1827)やシューべルト(1797~1828)、リスト(1811~86)など、多くの著名な後進たちを育てたことで知られるが、ほんの6歳差のモーツァルトとはソリが合わず、とくに晩年は、フランス国民主義やドイツロマン主義の荒れ狂う時代にあって、イタリア伝統派に対するドイツ民族派の標的とされ、サリエリがモーツァルトから盗作した、それどころか、彼こそがモーツァルトを殺したのだ、などとウワサされ、その作品もほとんどが忘れ去られた。これらのことを踏まえつつ、物語は史実を越え、モーツァルトという天才奇人とサリエリという凡才俗人を理念型にまで昇華させて、両者の愛憎を描き出す。

映画は、1823年11月、自殺を図って精神病院に入れられた老サリエリ(73歳)の、神父への告解として語られる。この場面が、最初から最後までを締める枠組構造をなしており、途中にも数回、この地のレベルに戻る。映像で見せられると、それが事実であったかのように観客には感じられるが、『ユージュアル・サスペクツ』(95)などと同様、じつはすべて、頭のおかしくなった人物の回想にすぎない。それも、モーツァルトには味方するように言いながら、裏で妨害を続けていたような表裏のある人物だ。典型的な、信用すべかざる語り手、ということになる。

この前提の上で、映画は、とくに180分のディレクターズカット版は、各1時間のきれいな三部構成となっている。最初はサリエリとモーツァルト、中盤はモーツァルトとその父、そして最後がその父に取って代わるサリエリとモーツァルト。しかし、この全体を貫いているのは、『闇の奥』(1902)=『地獄の黙示録』(79)のように、天才の音楽の源泉に迫っていくサリエリの冒険譚である。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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