『インターステラー』を読み解く

2017.11.01

ライフ・ソーシャル

『インターステラー』を読み解く

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/「星」は物語。テサラクトは図書館。SFの見せかけに騙されるな。安っぽい商品物語に耽り眠るな。穏やかな夜に身を委ねてはならない。/

 大学、それも芸術系の大学なので、通年講義で「SF論」なんていうのをやっている。その中で『インターステラー』を採り上げた。2014年、鬼才クリストファー・ノーランが自分で書いて撮った3時間近いハードSFの大作。

 どうも近頃、本のSF小説は、生ぬるいファンタジー化、というより、科学を不勉強なうえに、凡庸なアイディアを使い回した商業的マニエリスムの結果、幼稚で陳腐なライトノベルと化してしまっている。映画でも、あいかわらずの『スターウォーズ』や「マーヴェリックコミック」のようなシリーズばかりが話題になる。だが、その一方、『ゼロ・グラヴィティ』(2013)、『オデッセイ』(2015)など、けっこうなハードSF、つまり、ガチ科学もので傑作が出ている。その中でも、『インターステラー』は出色だ。

 しかし、映画だからといって、見えるものを見ていると、見るべきものが見えない。絵の具を見ていると、絵が見えないのと同じ。もちろん、映像スペクタクルとしても、とても出来がいい。砂嵐吹きすさぶ荒廃した広大な地上と、無音で無機的な密閉空間としての宇宙船の対比。そして、なにより、『デューン/砂の惑星』(1965、映画84)や『2001年宇宙の旅』(1968)をはじめとする、SFの名作のオマージュのてんこ盛り。というより、この作品そのものが、『2001年宇宙の旅』の解説として創られたと言ってもいいだろう。主人公の名前クーパーも、『ライトスタッフ』(1979、映画83)から取られている。

 とはいえ、このあたりで気付くべきなのだ。この映画で言う「星」が何であるかを。なぜ本棚を挟んで、不在の父親クーパーは、育って大人になっていく娘マーフィと向き合うのか。なぜ学校は『カプリコン1』(1977)のようなチンケな月着陸隠謀論を正史とするのか。なぜ喰いものを争い、技術は衰えるのか。

 宇宙だの、SFだのは、この作品の見せかけにすぎない。「星」は、物語そのもの。我々の頭脳は、いまや生ぬるく不勉強で凡庸な妄想とともに滅びようとしている。すでにダメになったというオクラは、科学とSFの象徴だ(米国のオクラは切り口が星形)。『フィールド・オブ・ドリームズ』(1989)に出てくるトウモロコシ畑のような夢の想像力も、ウィルスと砂に冒され、もはや枯れ果てようとしている。

 このままでは、いずれ地上に食料も酸素も無くなるということで、主人公たちは別の星への人類移住計画を立てる。可能性のある星は三つ。津波の星は、読み切れないほどの文字に溢れ、人生を失うような物語。氷の星は、宣伝ばかりで作者が喰って帰るためだけの不毛の物語。ミヒャエル・エンデあたりなら、この生のテーマを、そのまま話にしただろう。ノーランのすごいのは、これをガチ科学で目に見えるイメージにして見せたこと。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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