武家諸法度に見る武士道:賄賂こそ武家のたしなみ

画像: photo AC: AC work さん

2017.08.07

ライフ・ソーシャル

武家諸法度に見る武士道:賄賂こそ武家のたしなみ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/『武家諸法度』は、幕府への奉公と、武家の身分安堵との再契約であり、将軍の代替わりごとに発布された。その中で、賄賂を禁じる新井白石の「正徳令」は、わずか6年で廃止され、事実上、賄賂を黙認することとなる。というのも、武家は、弓馬の道でも、儒教道徳でもなく、『武家諸法度』に合うよう、体面格式を維持することこそが求められたからである。/

 「武士は喰わねど高楊枝」と庶民の「上方いろはかるた」に揶揄されたように、参勤交代の大名行列はもちろん、家臣の屋敷や生活、城下や街道の整備に至るまで、武士は絶対に相応の格式の体面を守らなければならず、その出費を惜しむことの方が武家諸法度に反したからである。だから、武家が武家であり続けるために、弓馬の道ではなく、この格式の体面を保つこと、その資金調達と体面維持に、全精力が注がれた。


寛永令の継承:現実的な武家の姿

 しかし、朱子学に基づいて白石が理想とした武家像は、あまりに思弁的過ぎ、現実の多くの武家の姿からは、かけ離れていた。このため、白石は、幕閣内でも強い反発を引き起こし、1716年の八代吉宗の登場とともに失脚する。将軍就任とともに、吉宗は、白石の「正徳令」を廃し、実質的に五代綱吉の「天和令」に戻す。これは、礼儀を正すことは引き継ぎながらも、公正規定や収賄禁止を武家の条件から外した、つまり、武家は公正である必要はなく、収賄はむしろ当然、と黙認した、ということでもある。

 というのも、とくに『武家諸法度』において義務として課せられた参勤交代と交通整備は、武家にとって大きな負担だったからである。当初の参勤交代は幕府防備のためのものだったが、国内に敵がいなくなった後には、たんに儀礼的なものとなり、また、むだに格式の高い外様を疲弊させることの方が主目的となった。また、これに伴い、街道近隣の各大名家も、相応の交通整備を強いられるようになった。

 かつて戦国時代までは、武具なども自前で整え、土木工事も武家が率先して地元農民たちとともに行うものだった。しかし、江戸時代になると、この『武家諸法度』の格式規定に沿うべく、すべての物品が外注化された。土木工事も専門性が高まり、素人の武家や農民に手に負えるものではなくなった。つまり、武家の主たる仕事は、各大名家においても、これらの物品や工事のための資金調達と体面維持にと変貌した。

 ここにおいて、武家は、本来の武装した警備戦闘をもっぱらとする「番方」よりも、公事(裁判)や経理、さらには地域振興を図る「役方」が重視されることになる。とはいえ、資金確保の地域振興の施策として、特例的な逸話ばかりが声高に語り伝えられているが、それはむしろ一般には、余計な改変改革は自分の分限を越える、として、大半の武士は、無為無策こそ無難無事、と考え、何もしようとはしなかったからにほかならない。『武家諸法度』「寛永令」第14条に「国郡を衰えさせるな」とあるが、地域振興のような積極的義務は課せられていない。むしろ、実際は、大半の大名家において、当座の資金調達のために、とにかく搾り取ることの方に重点が置かれていたのだろう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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