/摂理だか、世界だかに背き、確固たる自分の居場所を得られない者は、人として死んでいる。キルケゴールは、だから神に帰り、神との対話で自分固有の天命を自覚せよ、と呼びかけた。しかし、信心くらいで、かんたんに解決できる話だろうか。なぜ近代になって、自己喪失が、これほど問題になったのか。カネは魔物だ。生きるのに必要だが、それを求めると、それは人を殺す。/
近代になって国民を消しゴムのカスのように潰しておきながら、大戦後は手のひら返しで、一人の命は地球より重い、とか言い出した。それで、一方であいかわらず大量殺戮の戦争を続けながら、どんな人でも、最期の最期まで、スパゲティのようなパイプとケーブルで絡みとって大量の薬剤をぶちこみ続け、とりあえず、ただ心臓を動かし続ける、ということが文明の総意となった。
もちろん、身動きできない、目も耳も聞えないとしても、人間の心は無限だ。むしろ目をつむれば、想像力は、どんな外国にも、遠い昔にも、それどころか宇宙の果て、神々の世界にまで思いを馳せることができる。ただそれは、自分の意識で心を制御できればのことであって、機能不全や薬剤副作用によっては、その想像力は悪夢に転じ、目を醒ますこともできないのなら、それは出口の無い呪われた永遠の地獄ともなりかねない。そうでなくとも、体が自由にならない、気持ちが悪い、となれば、人に当たり散らしたくもなる。しかし、だからといって、それで、献身的に看護や介護に勤める人の心をじわじわと殺すのなら、そんな邪鬼は殺した方が社会のためだ、などというホンモノの悪鬼が出て来るのも不思議ではない。
で、生きている、とは、どういうことか。ただ心臓が動いている、ということではあるまい。悪夢だの、邪鬼だの、となると、もう「ひと」ではないのかも。昨今、コスパ、タイパ、合理性、と言うが、理性は、ある目的に対して最適化をしても、目的そのものは与えない。ところが、カントは、合理性が普遍的に成り立つようにするのが究極目的だ、などと言い出し、その普遍合理性こそ世界の摂理だからだ、と論じた。しかし、この考えは、ショーペンハウアーにおいて、自己を無にして、歴史的に発展成長を遂げていく世界精神へ絶対服従せよ、それこそがおまえの幸福だ、などという全体主義となり、弱者淘汰を自然の必然とみなすスペンサーのような通俗進化論とあいまって、極端な資本主義や帝国主義、実力主義をはびこらせた。
これに対して、身障のキルケゴールは、単独者、ということを提起した。神の摂理だか、世界精神だか知らないが、そこでの本来の居場所は、人によってそれぞれに違うにきまっている。そこに他人と同じ、普遍も合理も損得も無い。デンマーク語が理解不足だったせいで、「fortvivlelse」は 「絶望」などという誤訳が世界的に定着してしまっているが、原語の意味は「背教」だ。また、「angest」も、ラテン語の「anxio」に由来するので、「不安」ではなく「虚無」を意味する。彼が言う『死に至る病』は、背教による虚無、のことだ。摂理だか、世界だかに背き、確固たる自分の居場所を得られない者は、人として死んでいる。それが、キルケゴールの思想だ。
なぜ人は、世界に背いて虚無に陥るのか。あれもこれも、なんにでも手を出して、結局、なにも成し遂げられない。もしくは、あれもこれも、なんにもやらずに、やはり結局、なにも成し遂げられない。あれやこれやの可能性に心を振り回されていると、現実を見失う。逆に、あれやこれやの必然性に身を委ねてしまっていると、自分を見失う。こういうことになってしまうのは、第一には、自分に世界の中での使命、天命が与えられていることを知らないから。第二には、自分の天命をわかっていながら、それが気に入らず、成功者のだれかのマネをしたり、何者にもなろうとしなかったり。さらにまずいのは、第三の、オレはオレだ、とばかりに、神になったかのごとく、自分勝手に自画自賛して自滅する人。キルケゴールは、だから神に帰り、神との対話で自分固有の天命を自覚せよ、と呼びかける。
しかし、信心くらいで、かんたんに解決できる話だろうか。なぜ近代になって、自己喪失が、これほど問題になったのか。同じ時代、マルクスは、カネこそが、人が貧しくなる元凶だ、と考えた。第一に、人はカネで自分の作ったものを売り渡す。一見、等価交換に思えるが、それは、モノばかりか、それを作った努力まで自分から奪い取る。たとえ、今日を生きながらえるためのカネを得ても、これまで生きてきた証を失う。そればかりか、第二に、カネは、何を作るか、何をするか、まで、きみを雇った他人に決めさせてしまう。売春同様、きみはカネで自分の意志と時間を売り渡し、自分の体、自分の人生なのに、自分から自分のものではなくしてしまう。さらに第三に、カネを求めて、きみは、きみの仲間のはずの同僚や地域、社会の人々と競争を強いられ、自分の居場所を奪い合わなければならなくなる。こうして、第四に、きみは、自分の天命がわからなくなるばかりではない、そんなものを探る余裕も余力なく、摂理からも世界からも疎外され、ただ心臓が動いているだけの虚無の死人になる。
カネは魔物だ。生きるのに必要だが、それを求めると、それは人を殺す。いくらあって困らないせいで、その無限の獲得が自己目的化し、いよいよ人生が貧しくなり、自分が何者でも無い、カネを入れるだけの箱になる。周囲は媚び諂うが、それはカネのにおいがするからで、その人にはなんの価値も無い。実際、見てみろ、昨日まで企業のトップだ、財界の寵児だ、と呼ばれて、大きな顔で大きなことを言っていた人が、不正や醜聞で失脚した後を。カネが無くなれば、だれひとり彼に電話のひとつもかけない。というのも、彼自身は気づいていなかったが、彼自身はもともと無だったからだ。
それだって、それくらいの厚遇なら、そんな悪に落ちるのも、まだわからないではない。いよいよわからないのは、ほんの端下ガネの給与で人生を売り渡してしまう人たち。書類を改竄したり、数字をごまかしたり、インチキの商品を売りつけたり。それで儲かるのは、上のやつらだけ。ツケを廻され、仕事を失い、牢獄に入るのは、きみだ。たとえうまく罪を逃れて転職しようとしても、そんな悪徳企業の穢れがついた人なんか、ほかに雇うところなど無い。きみが自分で自分の人生に泥を塗ったからだ。
そうでなくても、ろくでもない人気商売でアブク銭を稼いでいる連中のことを見聞きすれば、やつらを羨みたくならないわけでもあるまい。とはいえ、有名ブランドをまとい、高級車に乗ってみたところで、架空のヒーローだの、作りもののアイドルだのの格好で写真を撮ってみたところで、いよいよ、きみ自身が何者でもないことが、よりはっきりするだけ。そもそも、人気商売の連中も、法外な宣伝と露出で有名人であるだけで、いまさらなにか芸ができるわけでもなく、技があるわけでもなく、まさに空っぽ。ちょっとしたことで、泡がはじけて地に落ちる。
人が求めるべきは、自分が自分になること。もちろん、世の中には損な役回りというものもある。命がけで人を救う、客に食事をふるまう、設備を保守する。仕事なんだから、助けてあたりまえ、おいしくてあたりまえ、いつも動いてあたりまえ。さして儲かるわけでもなく、人に褒められるわけでもない。だが、それがきみの天命なら、よろこんで受け入れようじゃないか。それこそが自分が自分になる唯一の自己実現の道なのだから。そして、それがほんとうに天命なら、儲かりもせず、褒められもしなくとも、きみがその仕事を続けて生きていけるくらいの、わずかなカネは、きっとついてくるはずだ。心臓が動いて、贅沢に溺れられても、本人が人間として死んでしまっていたのでは、すべてが虚無だよ。生きる、ということは、自分自身が自分自身の居場所を見つけて、そこで自分として生きることだよ。
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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