世界を救うという心の病

画像: 『幻魔大戦』『エヴァンゲリオン』『ソードアートオンライン』

2020.08.01

ライフ・ソーシャル

世界を救うという心の病

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ある日、使者が来て、祖国が存亡の危機であります、どうかご帰国を、と、言われて、死にそうな実の父である老王に代わって敵をけちらし英雄になる。という妄想が映し出している現実の出口は、その妄想の中には無い。/

 しかし、この大きな物語の枠組そのものが逆に暴露してしまうのは、現実においては、きみが王子でも王女でもない、それどころか、何者でも無い、サルトル的な意味でまったくの無だ、ということだ。友人も、同行する仲間のパーティも、まして、ちょっかいを出せる距離の異性も、現実には、まったく実在していない。

 世界を救う、という以上、なにかで滅びそうでないとならないはずで、それは、かつては核兵器と相場が決まっていたのだが、世紀末の世界救済の物語は、なにがなんやらよくわからない。それで、世界が滅ぶとはどういうことなのかを解明することそのものが、世界を救う使命と同一になる。

 しかし、カントに言わせれば、世界、などという概念は、超越的理念であって、統整的には用いることができても、認識や行為の対象とはなりえないものだ。ハイデッガーの言うように、我々は世界の中にいるのであって、我々がいる世界そのものは、我々には見えず、行為の対象となりえない。

 とはいえ、昨今、たしかに、世界へ発信したり、世界とつながったり、世界はじつに身近なものになった。しかし、そんなのは、砂浜に文字を書いたのと同じ。よほど個性がないと、検索にすらひっかかりもしない。ようするに、一言で言ってしまえば、世界なんかへ、宛もなく発信したり、つながったりしようとしている連中は、じつはむしろ世界から完全に疎外されているのだ。

 有名人や専門家は、多い、少ないの差はあるにせよ、一定のファンを持っている。また、ふつうの人でも、近況を伝えるべき知人や、自己紹介をして新しい友達を募集したりすることはあるだろう。しかし、まともな人なら、不特定多数の世界に、宛もなく「発信」したりしない。それは、むしろ、世界の中に連絡する相手がだれもいない、ということを暴露している。そして、実際、だれも来はしない。

 世界を救うなどと世界を対象化できるのは、世界の中にいないから。世界ではない部屋の中に引きこもっている。というか、世界の側から排除され、部屋に押し込められている。彼らは、世界について、自分の部屋の外について、具体的で複雑で不可解な実際の世界についての体験を持っていない。そういう体験の機会そのものさえも、奪われている。映画『タクシードライバー』や『ジョーカー』に見るごとく、彼らに対し、世界の扉は、かたく閉ざされているのだ。

 彼らにとって、世界を救う、ということは、じつは、もしも自分だけが唯一無二の救世主だったりすれば、自分も世界の中に迎え入れてもらえるのではないか、という、根拠のない期待だ。つまり、世界を救うことによってのみ、王子でも王女でもない、つまらない自分自身が世界に受け入れられ、救われる、ということを意味している。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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