中世暗黒時代:文明論的世界史の視点から

2018.07.10

開発秘話

中世暗黒時代:文明論的世界史の視点から

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ヨーロッパ中世は、中央アジアの騎馬遊牧民の西進によってゲルマン人が西ローマ帝国に入り込み、帝国が放棄され、代わって教会が抑圧的神聖管理をしたことによってできた。しかし、9世紀になると、ゲルマン人の残り、北方に逃げたノルマン人がヴァイキングとして来襲。これらを十字軍として東方に追い払おうとしたが、かえって東方貿易で力を付け、ヨーロッパの主権を奪われることになる。/

ノルマン人は船を改良し、ヴァイキング(襲奪)船を造り上げた。これは、底の平らな箱船の前後両側に反り上がった同じ竜骨船首をつけたような奇妙なボートで、船長20メートルもありながら、喫水は80センチ程度とやたら浅く、中央の一本マスト以外には船室もなにも無い。これに百人近くが乗り込み、推進は横帆か、オールを使った。箱船は、水深の浅い川なども遡上できるが、外洋では風に流されてしまう。だが、この船は、外洋では、乗員や荷物を後にずらし、船尾竜骨部を沈めてキール抵抗にすることで帆が受ける力を生かすことができた。

そもそもヴァイキング船は、それまでの戦艦とは運用方法が根本から違っていた。ローマやフェニキアなどの地中海のガレー船では、漕ぐのは奴隷で、左右三段、計数百名が櫂を握った。いまだ大砲が無かったため、戦闘はもっぱら船体突進で、船首下に付けた衝角と呼ばれる大型のツノで敵船の横腹に穴を開けた。これに対し、ヴァイキング船はもとより衝角を持たず、漕手の乗員が敵船に乗り込み、もしくは、敵地に入り込み、白兵として戦った。つまり、ヴァイキング船は、戦艦ではなく、急襲揚陸艦。彼らは、ネイヴィ(海軍)ではなく、世界最初のマリーン(海兵隊)だったのだ。

わずか数隻で大隊規模(数百人)のヴァイキングが突然に現れる。それも、川を使って内陸側から襲撃してくる。これにはゲルマン人も為すスベもない。ノルマン人は、イングランド、フランス沿岸、さらにはイベリア半島を回ってイタリア半島まで進出。また、東欧やロシアでは、川をつたって、黒海やカスピ海にまで達した。 911年、彼らはセーヌ河を遡って内陸の首都パリに迫り、フランス(西フランク王国)は、キリスト教への改宗とフランス王への臣従を条件にブルターニュ地方をノルマンディー公国として割譲。さらに、彼らはローマ教皇の傭兵として東ローマ帝国が支配していた南半イタリアとシチリア島を略奪し、1059年、カラブリア公国として認められる。さらに1066年、ノルマンディー公みずからイングランドを征服、ノルマン朝を開いた。


棄民政策としての十字軍

ところで、中東では、7世紀にできたイスラム教ができたものの、メッカの名家ウマイヤ朝カリフ(代理人)の支配が続いた。しかし、8世紀になると、ムハンマドの一族こそが指導者となるべきであるというシーア派が現れる一方、もともとの部族制や、イスラム教独特の中心無きスンニ(慣行共同体)主義が加わって、統一性を失っていく。この混乱の中、 750年、ムハマッドの叔父の子孫がカリフとなってアバース朝を建てる。しかし、これも部族連合程度の意味しか持たず、各地にカリフが乱立。それぞれ、中央アジアの騎馬遊牧民諸族を傭兵として利用するようになる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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