カグヤ姫には隠し子がいた:684年白鳳大地震の満月津波のかげで(再)

2017.10.04

開発秘話

カグヤ姫には隠し子がいた:684年白鳳大地震の満月津波のかげで(再)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/紀元前2世紀、秦の始皇帝の下、徐福という山師を中心に、三千人もの東方大探索集団が組まれた。その到来伝説が日本各地にある。しかし、この移民は、680年、外洋ダウ船によってこそ大規模に可能になった。その船に乗っていたのが、西王母信仰の巫女、カグヤ姫。そして、彼女は天武天皇との間に男の子を産んだ。しかし、その最期には悲しい悲劇が待っていた。/

つまり、伊勢神宮と対に、尾張(現名古屋城?)に中国の月女神(西王母)の祭殿が作られ、ここに中国系移民のカグヤ姫が巫女として天武朝の人質となった。しかし、巫女では、貴族たちが言い寄っても、そうそう簡単になびくまい。だが、もとより天武天皇は、秦氏美濃王領に接する大垣直轄領に生まれ育ち、『日本書紀』に書かれているように、幼少から中国の天文遁甲学を得意としていた。月女神(西王母)信仰にも関心と理解があっただろう。『竹取物語』によれば、天皇は、内侍の中臣房子に、多くの男を迷わせている美女と噂の高いカグヤ姫を見に行かせた。この中臣房子の実名は、後に中臣(藤原)鎌足の息子、藤原不比等の後妻となった犬飼三千代。

ところが、カグヤ姫は、あくまで飛鳥浄御原宮への出仕を拒む。それで、天皇の方がわざわざ出向き、偶然を装って姫に会い、以後、天皇はカグヤ姫の元に足繁く通って、逢瀬を重ねる。しかし、三年目、八月十五日には月の国に帰らなければならない、と言い出し、天皇が二千名の兵を送って守るも、なすすべもないまま、百人ばかりの天人とともに天へ昇っていってしまった。天皇には形見として不老不死の霊薬が残されたが、天皇は、カグヤ姫に会えないなら不老不死の霊薬も意味が無い、とし、いずれの山が天に近いか、と問うて、駿河の富士山にこれを持って行かせ、その山頂でこれを焼かせた、という。

実際、天武天皇は、『日本書紀』によれば、壬申の乱勝利のすぐ後、675年から、中国系移民秦氏の多い奥三河の新城(にいき、しんしろ)に都を遷すことを考えていた。そして、679年の筑紫大地震の後、682年にも再び、秦氏美濃王を新城に派遣して、調査させている。ササラ姫(後の持統女天皇)を捨て、中国系のカグヤ姫と新しい都で暮らすことを夢見たのか。そして、684年2月28日(旧暦)には、去ったカグヤ姫を探したのか、美濃王に信濃探索を命じている。同年10月14日(旧暦)、白鳳大地震。この前後、伊勢沿岸に住んでいた中国系移民の秦氏諸族や海部氏、安曇氏の一部は、実際に山中の信濃安曇野に移住。それは、一つには、津波や地震の被害を避けるためであり、また、もう一つには養蚕のための桑を育てるためだろう。


カグヤ姫と浦島太郎と津波とみかん

浦島太郎は、カグヤ姫の物語と表裏一体になっている。この話も、きちんと『日本書紀』にある。第21代雄略天皇22年、京都府北岸の現与謝野町浦島の青年が、大亀を釣った。すると、これが女になったので、妻にして海に入り、蓬莱山に行き、仙人たちに会った、というそれだけの条文。しかし、これは、7世紀後半に、知多半島武「豊」町浦之嶋の漁師が、これまで見たこともない巨大な外洋ダウ船に衝突し、秦氏に救われ、その女と結婚して、新城の奥の鳳来山に行った、という方が状況に合っている。ダウ船は、八代でも「亀蛇」と見立てられていたのだ。丸い船底、高い帆柱に絡みつく真っ白い帆布、これが亀と蛇に見えたのだろう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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