カグヤ姫には隠し子がいた:684年白鳳大地震の満月津波のかげで(再)

2017.10.04

開発秘話

カグヤ姫には隠し子がいた:684年白鳳大地震の満月津波のかげで(再)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/紀元前2世紀、秦の始皇帝の下、徐福という山師を中心に、三千人もの東方大探索集団が組まれた。その到来伝説が日本各地にある。しかし、この移民は、680年、外洋ダウ船によってこそ大規模に可能になった。その船に乗っていたのが、西王母信仰の巫女、カグヤ姫。そして、彼女は天武天皇との間に男の子を産んだ。しかし、その最期には悲しい悲劇が待っていた。/

ところで、カグヤ(迦具夜)姫は、『古事記』によれば、もともと第11代垂仁天皇の多くの妃の中の一人。それも、垂仁の記録は、ちょっとおかしい。というのは、正史の『日本書紀』に、この垂仁妃カグヤ姫の名は無く、垂仁本人も事歴が即位39年の後、48年も飛んで即位87年になっている。どのみち140歳まで生きたことになっているから、数字が合わないのは当然なのだが、古墳の殉死を埴輪に代えた、と言われることからすると、事実かどうかはともかく、人物埴輪の登場する400年代半ばと想定されていたのだろう。

もう一つ、垂仁で注目すべきは、即位25年に娘のヤマト(倭)姫にアマテラスを祭らせ、遠く美濃・尾張まで巡った後、伊勢に据えた、としていること。しかし、記紀で次にアマテラスが登場するのは天武の時代で、672年の壬申の乱のとき、自分は関ヶ原に向かう一方、ササラ姫つまり後の持統女天皇を桑名に留めており、即位2年、つまり、673年に、自分の娘、オオク皇女(ひめみこ)を斎宮として伊勢に送っており、また、持統女上皇(譲位後)は、701年にヤマト姫と同じく美濃・尾張まで旅をしている。

くわえて、垂仁の次の第12代景行天皇は、九州征伐で八代を訪れ、その皇子ヤマトタケルは、伊勢でヤマト姫から草薙剣を受け取り、房総半島に渡る荒れた海上で妻のオトタチバナ姫を失い、帰路、尾張でミヤズ(美夜受、宮簀)姫を娶るも、近江伊吹山で大蛇に祟られ死去。それで、ミヤズ姫は草薙剣を熱田神宮に祭った、という。ところが、壬申の乱の前の668年、ある僧がこの草薙剣を熱田神宮から盗み、新羅に逃げようとした。その後、行方不明になっていたが、686年、応神天皇が病に伏せり、これを占ったところ、宮中にある草薙剣が祟っているとされ、慌てて熱田神宮に返した。

このように、垂仁・ヤマト姫の時代と天武・持統の時代は、エピソードとして重複直結している。これは、両時代が同一ではないにしても、記紀編集時に、障りを憚り、天武・持統のエピソードを、あえて古い垂仁・ヤマト姫に混ぜ込んだからだろう。『古事記』にあって『日本書紀』に無いような中途半端な垂仁妃カグヤ姫も、ほんとうは、680年から684年のわずか3年の間だけの、天武最愛の人だったと考えられる。


秦氏美濃王と西王母巫女

壬申の乱、そして天武朝において、妻のササラ姫(後の持統女天皇)や娘の大来皇女を亀山や伊勢に置いたのは、それが伊勢湾岸を支配し、天武朝を支援する中国系移民の秦氏美濃王に対する人質だったと考えられる。そして、逆に同様に秦氏美濃王側からも人質の巫女が天武朝に預けられただろう。それが、カグヤ姫。おそらくヤマトタケルが娶った尾張のミヤズ姫と同一人物。ヤマトタケルはミヤズ姫を口説くのに、奈良のカグ山の月の歌を贈っている。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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