男色武士道:天下泰平の新キャリア

画像: 人倫訓家図彙から

2016.06.23

ライフ・ソーシャル

男色武士道:天下泰平の新キャリア

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/男色は戦国時代以上に江戸初期に爆発的に流行した。武功で出世する道は途絶え、その一方、体制整理で大量の無頼浪人や無役の下級武士が溢れていた。ここにおいては、美少年のうちから将軍や藩主の寵愛を受け、大役に抜擢されるしか、「武士」として生き残り、昇進出世する方法がなくなってしまったからだ。/



 後に「知恵伊豆」と称される松平信綱(1596~62)も、もともとは武蔵国高麗領の代官、大河内家の小せがれ。しかし、5歳のとき、長沢松平家の養子となっていた叔父を自分で頼って行って、養子にしてもらい、将軍秀忠に近づいて、1604年、8歳で念願の家光小姓に。また、飛騨高山藩金森家七男、重澄(1607~42)も家光に気に入られ、その小姓となる。



 一方、古参たちは、家康の長男で信長の娘婿の信康が信長の不興を買い、切腹を強いられた事件(1579)で、家康の信任を失い、おまけに、征服した甲斐や関東の収領で、武田家の猿楽師だったとかいう山師、長安(1545~1613)に頼り切り、こいつがとんでもない不正蓄財をしていたために連座処分されてしまう。かろうじて成瀬正一の三男、正武(1585~1616)は、6歳のときから秀忠の小姓に送り込まれていたが、大阪の陣でも奮戦したものの、その翌年に自刃を命じられている。一説には、他の女だか男だかと密会したのを秀忠に咎められたとか。


春日局の陰謀



 将軍秀忠と母の江は、病弱な家光よりも、健康的な弟の忠長(1606~34)を溺愛。春日局は駿河で隠居していた先代家康(1543~1616)にかけあって、家光の後継指名を取り付ける。そのかいあって、秀忠(1579~1632、44歳)がいまだ壮健な23年早々に、家光(19歳)が第三代将軍に。



 これとともに、大阪の陣で一番槍を挙げた阿部正次(1569~1647、54歳)、家光の教育係の内藤忠重(1586~53、37歳)、古参旧家の酒井雅楽頭(うたのかみ)忠勝(1587~1662、36歳)らだけでなく、春日局の実子で家光の小姓、稲葉正勝もまた、若干26歳で新老中、柿岡藩1万石の大名に。金森重澄(16歳)は老中酒井雅楽頭家の号を得て、2万5千石の大名。堀田正盛(14歳)も小姓組番頭として所領計1万石の大名。松平信綱(27歳)は2千石にとどまったが、遅れて28年に1万石の大名に。



 ここにおいて、春日局は、いわば皇室に娘を送り込んだ外戚藤原家と同じような権勢を誇ることになる。家光の寵愛する小姓たちは、このマネージャーが支配していた。ただ、男色では継子が生まれない。そこで、春日局は、魅力的な娘たちを集めた大奥を同じように整備していったが、小姓たちに執心の家光の気を引くのは容易ではなかった。



 一方、小姓上がりの大名たちは、その後も順調に加増出世。稲葉正勝は、32年、古参の大久保家や阿部家のものだった、伝統ある小田原藩を与えられ、8万5千石。堀田正盛は33年に若年寄となり、さらに35年に老中、38年には大老、10万石の信濃松本藩主、42年、ついには下総佐倉藩主11万石。松平信綱も、32年に老中となり、島原始末の後、39年、川越藩6万石。「ケツで大大名」との揶揄も、あながち冗談にならない。ただ酒井雅楽頭(金森)重澄は、女との子作りが家光の勘気をこうむり、33年に改易、42年に餓死自殺。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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