鎮魂っ、赤塚不二夫論っ!
書かずにおれないのだっ!

2008.08.04

ライフ・ソーシャル

鎮魂っ、赤塚不二夫論っ! 書かずにおれないのだっ!

中村 修治
有限会社ペーパーカンパニー 株式会社キナックスホールディングス 代表取締役

「人生はギャグ」を信条に生きた漫画家の赤塚不二夫さんが2日、その生涯を閉じた。 この訃報をほっておけないのだ。 慎んで、赤塚不二夫論なのだっ。

赤塚不二夫なりの「反権力」「反体制」の表現の極みが、
「もーれつア太郎」であり、「天才バカボン」なのである。

「これでいいのだ」のギャグの裏には、
赤塚不二夫自身の時代に対しての
「これでいいのか?」があったのだ。きっと。

当の時代を駆け抜け、死に急いだ三島由紀夫は、
「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。「もーれつア太郎」は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会うという主題の扱いでも共通している」(Wikipediaより)と絶賛しており、当時、学生たちの間にも全共闘ニャロメ派というのができたという話も聞く。

しかし、実際の赤塚不二夫自身には、
それほどの「反体制的」表現活動の意識も薄く、
いろんな評伝に出てくる本人は、
究めてシャイで、自然体の、とてもヒトの良いおじさんである。

著書「赤塚不二夫のおコトバ」には、
気負いのない、力の抜けたエピソードがたくさん書かれている。
その中に、こんな一節がある。
赤塚先生が『天才バカボン』で、真っ白のページや実物大漫画などの実験的な漫画を描いておられたことについて尋ねたときの応答です。手塚 眞(ヴィジュアリスト)……赤塚家の居間にて/平成12年
「あの頃ね、読者と対決していたんだよ。読者がつまんないというから、じゃ、こういうのはどうなんだと出して、でもつまんないって。じゃ、コマが真っ白な漫画を出すよって出して。そしたら、面白いって。」

理屈や知性で、漫画を書いていない。まさに、天才だったのだと思う。

で・・・その天才は・・・どのようにして生まれたのか?
Wikipediaによると、赤塚不二夫は、1935年、満州国熱河省に生まれ。「バカボンのパパ」のモデルであり[1]憲兵であった父親は第二次世界大戦終戦直前にソビエト軍に連行されてしまい、残された家族は1946年に母の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げるとある。
父親がシベリアに抑留されてから、解放されたのはその4年後。
12才までの多感な少年期のほとんどが、
想像を絶する過酷なものであったことが予想される。

「これでいいのか?」と幼少の赤塚不二夫が問うても、
何も変わらない抑留の状況。
時代も、体制も、何も動きはしないっ。
子供ながらに、この厳しい状況を乗り切るには、
「これでいいのだ」と笑い飛ばすしかなかったのだっ。

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中村 修治

有限会社ペーパーカンパニー 株式会社キナックスホールディングス 代表取締役

昭和30年代後半、近江商人発祥の地で産まれる。立命館大学経済学部を卒業後、大手プロダクションへ入社。1994年に、企画会社ペーパーカンパニーを設立する。 その後、年間150本近い企画書を夜な夜な書く生活を続けるうちに覚醒。たくさんの広告代理店やたくさんの企業の皆様と酔狂な関係を築き、皆様のお陰を持ちまして、現在に至る。そんな「全身企画屋」である。

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