​中世中国道教の展開

画像: 老君山(外国人立入禁止の秘峰)

2024.12.09

ライフ・ソーシャル

​中世中国道教の展開

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/道教、と言っても、古代の素朴な自然法則崇拝から革命的宗教教団、そして国家行事祭祀まで、漢代末から三国南北朝、隋唐五代十国にかけて、大きく変化してきた。その底力は、いまも政府が恐れるほど強大だ。/

漢朝末期の道教教団

伝説によると、古代中国は大洪水の後に伏羲、神農、黄帝という三天帝によって建られたとされる。おそらく伏羲は鉄を伝えた雲南人、一方、神農は中国南東部(陳)から黄河中流の中原に来て農業を始めたが、依然として木製農具を使っていた。したがって、彼らは伏羲とは別系の人々だっただろう。

道教では伏羲が易を発見し、神農が農業を発明し、黄帝が医学を解明したと考えられており、通俗道教では、人々は道教寺院で幸運、収穫、健康を彼らに祈った。道士として山中での厳しい修行で道と一体になろうとする者もいたが、修行した道士を装って怪しげな占術をし、役に立たない呪物や薬品を市場で高値で人々に売る方士たちもいた。

政治が不安定になり、疫病が広く蔓延すると、百歳を超える伝説的な道士、于吉(うきつ, ?-200)は山を下り、人々を癒すために揚子江下流にきて、聖典『太平清領書』をもたらした。洛陽の張角(?-184)は怪しい方士だったが、その本を得て、太平道教団を組織した。その本は対話形式で人々や国家を癒やす方法を述べており、張角は人々に聖水を飲ませ、悪徳を悔い改めさせた。

同じく道教に着想を得た中国西部の張脩(?-189)は、五斗米道を創った。その名が示すように、彼は人々から升五杯の米を徴収して、新たな宗教国家の建設を目指した。 184年に中国東部から太平道の張角が後漢朝に対し黄巾の乱を起こすと、これに呼応して西から五斗米道の張脩が蜂起した。しかし、反乱はすぐに鎮圧され、中国南東部の張魯 (?-215) は、教祖の張脩を殺害して五斗米道教団を乗っ取り、代わりに彼の祖父である伝説的な道士、張陵 (34 -156) が五斗米道を創ったかのように、天師として崇拝した。


道教の成熟

後漢朝は220年に滅び、三国時代(魏(北)-呉(南東)-蜀(南西))となり、その後、晋の統一(266-420)も長くは持たず、北半は五胡十六国 (304-439)、北魏(439-556)、北斉(550-77)、北周(556-81)が、南半には宋(420-79)、斉(479-502)、梁(502-57)、陳(557-89)ができた。くわえて、五斗米道国は、中国中央の龍虎山に移り、独立を保った。この南北朝は、589年の隋による統一まで続いた。

このような混乱の時代に、人々は道教と新たに輸入された仏教に帰依した。魏の華佗(かだ c140-208)は黄帝の医学を展開し、麻酔を用いた外科手術さえ行った。蜀の葛玄(かつげん 164-244)も医学を学んだが、彼は不老不死の仙人になる霊薬「丹」を作ろうとした。これに対し、魏の魏華存(ぎかそん 252-334) 、299 年、洛陽の南で上清学派を設立した。彼女は、インドのヨガや密教のように、秘薬を使わずに自分の体の中で神々を瞑想することによって仙人になる方法を開発し、世俗的なトラブルを避けようとする官僚たちによって受け入れられた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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