邪馬台国の比定前提となる狗奴国:文明論の視点から

2023.09.30

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邪馬台国の比定前提となる狗奴国:文明論の視点から

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/隣接する邪馬台国と狗奴国の南北方位にまちがいはなかろう。この南の狗奴国は、外洋に面した南岸ないし西岸であるだけでなく、逆にそのすぐ北に隣接して、同じく別途で朝貢しうるほどの力と外洋船を持った邪馬台国が存立しうる余地がなければならない。/

問題は、これらの「倭国」が同一連続かどうか。金印という物証が福岡で見つかったとはいえ、それは争乱で同地に隠されたものかもしれず、漢書の倭奴国が同地にあったとまでは言い切れない。一方、宋書の倭の五王は、彼らの間に単独継承関係がある統一王朝だったかどうかはともかく、もはや大和時代であり、そのどこかからはもはや奈良に政権があったはず。それゆえ、その間の卑弥呼がどこにいたかは、大和朝廷成立を理解するのに、たしかに歴史的に重要な問題だ。とはいえ、卑弥呼の国は、倭人ながら、わざわざ「邪馬台国」と呼ばれており、これとは別に「奴国」だの「狗奴国」だのもあって、魏と国交がある倭人国だけでも三十もあった。

知ってのとおり、魏志倭人伝は邪馬台国までの行程も書かれているが、これもつながりがよくわからない。とりあえず、倭人は「帯方」(朝鮮半島北西部)の東南の大海の中にあって、山島に依って国邑を為し、かつては百余国もあった、とされているところから、海洋漁村の人々だったのだろう。しかし、すでに知られていた「韓国」(ソウル沿岸部)より東南、とではなく、あえて、それより北の帯方より東南、などと書かれている以上、韓国もまだ一帯支配が確立しておらず、朝鮮半島中西部から南部まで、つまり、ソウルから釜山まで、これらの半島沿岸の島々にも倭人国邑が点在していたのかもしれない。

その倭人の本地へは、はじめて一海千余里を渡って、対馬国に至る、とされる。ここでも、この対馬国がすでに倭人の国なのかどうか、わからない。「対海国」とある異本もあるが、いずれにせよ、半島沿岸を離れて最初の国を、今日の対馬と比定して問題はあるまい。とはいえ、この先の地理説明が並列なのか連続なのか不明で、方位距離が書かれていても、どこを起点にしての話なのか、さっぱりわからない。なんにしても、どこかから南に行くと、卑弥呼の邪馬台国だ。ところが、さらにその南にはまだ、狗古智卑狗という男王の「狗奴国」があって、これは邪馬台国には属さない、とされている。

漢書において、「倭奴国」は倭国の中でも極南界である、とされていたことからすれば、邪馬台国ではなく、むしろその南の狗奴国こそが、57年に朝貢して金印を下賜された倭奴国であるということになる。くわえて、その倭奴国が、それより北の倭人の国々に阻害されず、後漢(黄河上流の洛陽が首都)に朝貢できた、ということから、それは北の倭人の国々、半島沿岸さえも通らずに直接に外洋に出られて、黄河河口の渤海沿岸まで直行できたことが推定される。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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