時間の現象学:時性という価値付与

2022.06.23

ライフ・ソーシャル

時間の現象学:時性という価値付与

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/現在に内在する物事の特殊な一部も、一般にその過去や未来としての〈時性〉を付与することが可能であり、実際、かなりのものが、現在にあって現在ではないものとされている。/

主体は、独自の〈生活世界〉を持ち、行為や所有によってその統一整合性を確保しようとしている。しかし、この〈生活世界〉は、完結したものではない。その主体の所属するより上位の主体の〈生活世界〉の一部であったり、また、そうでないまでも、その周辺を他の主体の〈生活世界〉と共有したり、接触したりしている。また、その主体の所有するより下位の主体の〈生活世界〉が内在していることもなる。その結果、主体は、つねにこの自己の〈生活世界〉を再調整し、その統一整合性の維持に努力しなければならない。また、逆に、むしろみずから行動を起こし、他の主体に働きかけることによって、自己の〈生活世界〉の不完全な統一整合性を改善していかなければならない。

ここにおいて、その主体の調整や行動は、未来への選択となる。すなわち、自己の〈生活世界〉の内部の調整はもちろん、ましてや他の主体との交渉はつねに不確定の可能性に開かれているからである。しかし、未来というものは、その名のとおり、まさにいまだ存在していないことによって特徴づけられている。とはいえ、この[存在していない]という性質は、過去も、さらには、虚構も同様である。では、未来はどのように存在していないのだろうか。

素朴な俗説においては、我々の意識が現在の空間を超える時間の形式を持っている、とされている。しかし、真摯に反省するならば、我々はたかだか目前の現実ではない画像などのイメージを持ちうるだけであり、それもかなりまれで無理なことである。そして、その過去とも未来ともつかない、単なる現在の虚構の画像的イメージを、説明的に過去や未来としているにすぎない23。

23 意識における時間形式の問題については、アウグスティヌスやカントの理論が有名である。くわえて、一般に、哲学において、認識はイメージによる、という発想があるが、現実には、人間のイメージの能力ははなはだ微弱であり、認識や意志などの日用に耐えうるものではない。たとえば、我々は味覚や臭覚をイメージすることははなはだ難しい。また、画像や音楽をイメージしたとしても、そのイメージは、まさにイメージしている現在においてこそ存在しているのであり、それは過去のものでも未来のものでもない。

過去のものや未来のものとして説明されるものは、なにも意識における薄弱なイメージに限定されるわけではない。現在に内在する物事の特殊な一部も、一般にその過去や未来としての〈時性〉を付与することが可能であり、実際、かなりのものが、現在にあって現在ではないものとされている24。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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