文化と事業の継承と創造:構造主義と脱構築

2019.01.15

ライフ・ソーシャル

文化と事業の継承と創造:構造主義と脱構築

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/それがそれであるのは、それがそれであるからではなく、それがそれであるとしているからにすぎない。ところが、同じはずものが、同じせいで、かえってズレて別様になってしまう。/

この構造主義は、論理学と結びついて、いまのAIの先駆、《論理実証主義》となる。すなわち、我々の知識の本質は、どの国の言葉でもない一般言語的な命題の体系であり、その周縁部の命題([○○である/でない]というデータ)だけが現実に接していて、それらの真偽だけを経験で確かめれば、後は論理計算ですべての知識の真偽が決まる、という発想。

この急先鋒だったのが、ヴィットゲンシュタイン。ところが、戦後、彼は、この論理実証主義、というより、構造主義そのものに疑念を呈する。すべての知識、すべての言語などというものが、いったいどこにあるのか。我々が実際にやっていることは、もっと違うのではないか。言葉など、かけ声の一種で、相手になにか行いを促すだけ。うまくいけば、それでいい。この実際の〈言語ゲーム〉に、意味だの、構造だの、出る幕は無い。規則ですら、判断が分かれて揉めたときだけに、必要な条項を引っ張り出すのみで、ふだんの我々の活動の「中」に隠れていたりしない。

デリダをはじめとするポスト構造主義は、さらに根本的な構造主義の欠陥に気づいた。構造主義は区別の体系で、同じ枠組で捉えられることで〈同じ〉とされる。ところが、同じものは、言語ゲームの累積展開の中で、絶対に同じ枠組にならないのだ。たとえば、ヒットラーと同じ演説をチャップリンがやっても、チャップリンは絶対にヒットラーにはならない。それどころか、意味が茶番に変わってしまう。というのも、あえてわざわざ同じことをやる、ということが、まさに、最初のこととは違うからだ。このように、同じはずものが、同じせいで、かえってズレて別様になってしまうのを、「差延」と言う。

ここでまた、キルケゴールやニーチェの実存主義が着目した〈歴史的一回性〉の問題が、ふたたび文化人類学などをも捲き込んで、ぶり返す。同じことをやっても、もはや同じではありえない。それは、同じにしようとするがゆえに、同じではなくなってしまうのだ。オマージュ(継承創造)やエピゴーネン(劣化複製)、パロディ(皮肉模倣)やキャンプ(過剰による劣化)、コラージュ(つぎはぎ)やマッシュアップ(潰し素材)、シミュラークル(オリジナルのない複製)など、〈同じ〉であるはずが、作り替え(再開発、デコンストラクション)になってしまう。

戦うのための城が観光施設として再建され、古民家がスタイリッシュなカフェに改築される。古い着物が切り刻まれて奇妙なドレスに生まれ変わったり、優雅な和歌がただのカードゲームとして乱暴に叩き飛ばされたり、もうむちゃくちゃ。しかし、歴史とは、そういうものだ。ほとんどすべてのものが、大衆受けするわけのわからない方へ劣化し続け、増え続ける。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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