織田信長は伊藤博文の鉄道に轢き殺された

画像: 対岸に再建された清洲城

2015.12.13

開発秘話

織田信長は伊藤博文の鉄道に轢き殺された

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/信長の清洲城は、家康によって尾張国府が名古屋城に遷された後、川の氾濫と新田開発で跡形無くなった。幕末になってようやく史跡として保存顕彰しようという動きが起こり、宮内庁の御料地とされた。にもかかわらず、伊藤博文は、その真上に東海道本線を敷き、史跡を徹底的に破壊し尽くした。/


 ところが、鉄道だ。関西では、神戸~大阪~京都が1877年に開通。84年に大垣まで延伸。そして、当初は内陸開発のため、このまま岐阜を通り、東進して中山道ルートで東京と繋がるはずだった。このための線路や橋梁などの建設資材は、神戸で製造、四日市港で上げ、別に北上線を敷いて、大垣まで届ける計画だった。ところが、これが唐突に知多半島の武豊港に変更。ここから、86年、名古屋城西南の沼地をむりやり埋め立てて作った名古屋駅を経て、岐阜まで濃尾平野をまっすぐ縦断する名古屋線(現在の東海道本線)が作られることになる。


 この線路が非常に奇妙なのだ。この名古屋線は、沖積平野にあって極端に地盤脆弱で、繰り返しの地震による液状化、木曽三川の洪水や鉄橋など、問題山積であることは明白だった。そしてなにより真っ平らな平野にあって、いくらでも避ける余地はあったのに、わざわざ畏れ多い天皇陛下の御料地であるはずの清洲城址を踏みつけ、これを破壊して、線路で真っ二つに分断してしまったのだ。


 当時、鉄道計画の中心にいたのは、井上勝鉄道庁長官。そして、初代大蔵大臣松方正義と、これにぶら下がる政商川崎正蔵の神戸川崎財閥。だが、彼らの背後にいたのは、明治の豊臣秀吉、すなわち、鉄道推進論者の宮内卿にして初代総理大臣を兼任した伊藤博文にほかならない。じつはこのころ、明治政府は新たな危機に直面していた。77年に起きた九州の西南戦争はかろうじて平定したものの、80年には、その残党の不平士族たちが、大阪を拠点に豪農豪商をも取り込み、門閥政府に対して国会開設を要求する自由民権運動を起こしていた。


 明治十四年の政変(1881)で、伊藤が政府内民権派を追放して独裁体制を固めたものの、西南戦争の戦費始末のための松方デフレのせいで、運動は貧農や庶民、兵士まで広がり、暗殺や強盗、さらには爆破テロと武装蜂起による政府転覆計画へと過激化しつつあった。84年の飯田事件では、名古屋城内の兵士がその火薬庫を爆破して蜂起する計画が発覚。実際に大量の偽造紙幣による資金調達も行われていた。さらに大阪では、朝鮮王朝に対するクーデタとの連携が図られていた。西南戦争を繰り返さないためにも、伊藤にとって、名古屋、そして大阪の制圧路の確保は急務であり、名古屋線はそのためのもの。


 しかし、それにしてもなぜ、すでに史跡としての高い意義が認められていた清洲城址を、伊藤は宮内卿の兼任地位を利用してまで破壊する必要があったのか。自由民権運動は、あくまで立憲君主制を称えるもので、むしろ急進的愛国主義として天皇擁立、姦臣排除を唱っていた。とくに名古屋は、尾張徳川の初代義直の時代から尊皇の気風があり、明治維新においても、むしろ率先して東海道の譜代を勤王方にまとめ、新政府軍の便宜を図っている。へたにこの城址を避けて線路を敷設したとしても、もしもここに錦の御旗を掲げる武装民権派が立て籠もった場合、鉄道の方が容易に分断されてしまい、制圧路としての用をなさない。くわえて、天皇直轄の御料地に軍を差し向ける、というのは、大いにはばかられる。まして、信長の桶狭間よろしく、ここから疾駆東征に打って出られたら、名古屋はもちろん、東海道もやつらの手に落ちる。だったら、いっそ先に壊してしまえ、ということだろうか。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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