​革命期のドイツ観念論:カントからキルケゴールまで

2020.12.04

開発秘話

​革命期のドイツ観念論:カントからキルケゴールまで

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/カントは、理性の限界とともに実践の領域を発見した。しかし、そこでは、現実との対決が待ち受けており、ばらばらの自己定立が人々の同一性を打ち壊す。ヘーゲルは、ここに、学習し発展していく世界理性という新たな神を見たが、フォイアーバッハやマルクスは、唯物論としてモノの支配と人間性の疎外を疑い、共同体による革命の必要性を説いた。だが、キルケゴールは、カントに戻って、神は理性の限界の向こうに置き直し、それを支点として、他人とは異なる生き方、単独者としての実存を問うた。/



6.マルクス(1818~83)

さらにその弟子筋のマルクスは、フォイアーバッハの考え方を洗練して、宗教よりも人間の経済活動に着目し、「唯物史観」を唱えた。モノは、人間にモノを作る道具を作らせ、道具を作る機械を作らせ、やがてモノや道具や機械は、みずからどんどん作られるようになっていく。もともとモノは人間の生活の手段にすぎなかったのに、いつの間にか、モノが自己目的化して、モノを作るため、文明を発展させるため、人間の生活の方が犠牲にされるようになる。

そこには、四つの疎外がある。一つは、成果からの疎外。自分の作ったモノを、他人に売り渡して、自分のものではなくしてしまう。二つめは、仕事からの疎外。モノを作るという人間の本質的な能力から売り渡してしまい、他人の言うがままに働かされることになる。三つめは、人類の疎外。働くという人間の本質的な能力を他人に売り渡してしまった結果、もはや自分自身で考えることも行動することも許されず、人類の一人でありながら自分からは人類の歴史に関与できない。そして、社会の疎外。同じ人間でありながら、たがいに他人をモノや道具としてのみ利用しようとし、他人がすべて敵となる孤独な個人の孤立へと追い込まれてしまう。

マルクスによれば、モノでも道具はモノとして以上の価値がある。労働力も同じ。だから、道具や労働力を買って使うと、その価格以上の物ができる。これが「剰余価値」。資本家は、道具や労働力を買い、できたモノを売って儲けているが、剰余価値はもともと道具やモノを作った人から生まれている。つまり、労働者は人間としてまるごと資本家に搾取されている。

で、また革命だ、みんなで団結して資本家を潰せ、モノを、自分を、人間を、社会を取り戻せ、ということになった。彼は「共産主義」として、財産、とくに生産手段となる道具やカネという資本をみんなで共有すれば、資本家による剰余価値の搾取は無くなり、自由で平等で豊かな社会が実現できる、と考えた。

ところが、その70年後、実際にロシアで革命が実現し、共産主義が世界の半分を占めるに至ったが、そこには自由も平等も豊かさも無かった。共産主義を実現するための党が、運動から疎外されてできた新たな「神」となって、人々を支配し、差別し、搾取したからだ。そして、さらにその70年後、その大半が自壊してしまった。



7.キルケゴール(1813~55)

キルケゴールは、デンマークの信仰の人で、マルクスと同時代だが、みんな団結して生産手段を共有すれば幸せになれる、などとは信じられなかった。人が神を創った、などというフォイアーバッハは論外。そもそも神は、人間とは創造主と被造物として越えがたい絶対差異があり、絶対不可侵であるのに、それが相互作用する、などというフィヒテ、シェリンク、ヘーゲルのドイツ観念論からして認めがたい。そして、彼は、むしろカントの理性批判に回帰した。

Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。