世界はうまくいくようにできている:三分でわかる陽明学

画像: 中江藤樹記念館陽明園王陽明像

2016.09.26

ライフ・ソーシャル

世界はうまくいくようにできている:三分でわかる陽明学

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/朱子学は、二程子から理気二元論を採ってくることによって、新法新学の一国斉民思想を退け、士大夫の必要性を説いた。しかし、理気二元論は、二程子の弟の程頤によって、体(無心)の中正、「敬」という話に矮小化されてしまっていた。陽明は、朱子の文献の中に二程子の兄の程顥の万物万民一体の「仁」という壮大な構想を再発見し、それこそが朱子晩年の真説と考えた。/


陽明学の分離


 陽明は、この自分の考えを、あくまで朱子が晩年に到達した最終的な真説と考えていた。ところが、主流派は、この陽明の考えが、朱子を批判し、朱子と論争した陸象山に近いことにすぐに気づいた。また、陽明が挙げた論拠が、朱子の晩年の言葉ではないことも文献学的に明らかにされた。こうして、陽明の朱子学学は、異端とされることになった。


 しかし、朱子の学説に沿わないとはいえ、朱子の方が凡庸な程頤の理屈っぽい解釈を介することで、その兄の程顥の天才的なアイディアを歪曲矮小化してしまっていることは、これまたもはや文献学的に明らかだった。また、朱子は、王安石と司馬光の新旧論争において、あくまで限定譲歩的に『孟子』の性善説を容認し、そのうえで『大学』や『中庸』を援用して、その万民性善説を現実において否定したが、朱子と孟子であれば、孟子の方が古い以上、孟子の万民性善説の方が優位でなければならない、というのが、古典権威主義的な中国の学問の原理原則だ。朱子ごときがなんと言っていようと、孟子の方が正しい、とする方が理に適っているとされた。


 かくして、陽明の考えは、もはや正統な朱子学学であるなどと主張する必要がなかった。孟子や程顥、陸象山の系譜にあって、凡庸な程頤の歪曲を介する朱子学と並ぶ、いや、それ以上の正統な理解であると考える人々が出てきた。もちろん政府の科挙は、あくまで朱子学を公認したが、こうして朱子学を官学として広めれば広めるほど、朱子の学問的ないかがわしさも知られるところなり、朱子学を深く修める者であれば、むしろ陸象山や王陽明の思想の方に傾いた。


 もとより朱子学は、地位も財富も無い在野の閑寂にありながら、みずからを磨いて求心力を付け、天下をもみずからの足下に納めんとする野心的な思想だ。一方、陽明学は、いきなり大政権の中枢の役を担わされて、どうやってこの好状況を維持していくか、腐心する守勢。いわば、創業者と世襲社長の違い。


 また、朱子学は、気の乱れに右往左往してばかりいる愚民どもを蔑視し、腹の据わった士大夫こそがエリートとして政権を取るべきだ、と考えている。これに対し、陽明学は、もともと天下人であることが前提だが、天理を同じくする庶民のばらばらの言行にも同等に理を認め、これらすべてをうまく感じ取ることこそが天下人に求められる。朱子学は、欲は気の乱れだとしてすべて否定してしまうが、陽明学では、農民が豊作を望むように、商人が利得を求めるのは道理であり、そのそれぞれの欲に素直に従うことが天理だ、とされ、それらの欲の実現をそのまま我がことのように重んじ計らう仁が天下人には求められる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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