人権ってなに?

画像: 世界人権宣言とエレノア・ルーズベルト

2015.12.05

ライフ・ソーシャル

人権ってなに?

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/人権は、『世界人権宣言』で決議された達成すべき努力目標。しかし、権利は国や他人の義務によってしか実現しない。おまけに、人権論の根底には、市民権論、実定法論、自然権論の違いがあり、くわえて、現代社会はもはや自由や平等の調整の余地を失ってしまっており、簡単な問題ではない。/


 第二は、実定法。『マグナカルタ』(1215)、『権利の章典』(1688)、さらには『ナポレオン法典』(1804)などの刑法や民法、訴訟法、徴税法の体系。これは、国や他人の好き勝手な自由を法律で制限することによって、実質的に人権の余地を開けるもの。言わば、外堀を固めて、中に自由と平等を確保する。たとえば、人を殺したり、傷つけたりしてはいけない、と法律が国や他人に義務づけることによって、実質的に生命の安全が守られている。しかし、これは、もとよりむしろ国や他人の自由を制限するもので、そのせいで、実定法化されていない、罰則の無いことなら、どんなズルいこと、どんなをヒドいことをやっても自由にいいんだ、などとと考える連中を多く生み出してしまう。


 第三は、自然法。引力万有のごとく、すべての人間は生まれながらに天賦の人権を持つ、という考え。最初のホッブズ(1651)は、万人が自分の人権を主張すると、万人の万人に対する闘争に陥ってしまう、とし、それゆえ、各自が自分の人権の一部を抑制割譲して、社会理性(均衡配慮)としての国を社会契約として作った、とする。この発想では、国は闘争の防止解決のみを消極的に委託されているにすぎなかった。ところが、その後、人権の実現拡大という積極的な役割まで国に期待する人々も出て来て、パレート最適化(再配分によって既得権者を不利益にせず、別の者の利益を捻出する)、さらには自然の不自由や不平等の解消さえも求めるようになり、どんどんと自由を制限する実定法を増やそうとする。このため、同じ自然法人権論の中でも、小さな政府による自由主義、と、大きな政府による平等主義、が争うことに。


 現代の人権問題の困難は、ひとつには、第一の双方向義務の市民権人権論と第三の一方的要求の自然法人権論が原理的に真逆で相容れないこと。たとえば、大量殺戮兵器を準備しようとするテロリストなどのように、他人の生命の権利まで侵害しようとしているやつは、第一の市民権人権論からすれば、保護の対象ではなく、むしろ「人権の敵」として国や市民を挙げて抹殺すべき対象、ということになる。が、自然法人権論からすれば、テロリストであろうと人間であり、確たる犯罪の実行、準備の証拠も無しに、また、しかるべき公判手続も無しに、容疑のみで殺すことは許されない。


 もうひとつには、不自由や不平等は人権侵害のせいとは限らない、ということ。身体の障害、病災害など、運の不平等。いくら実定法で国や他人による人権侵害を抑制しても、この問題は解決しない。しかし、市民権人権論に基づくせよ、自然法人権論に基づくせよ、国や他人は、自分たちのせいでもないのに、これを平均水準まで補填してやらないといけない義務を負うのか。しかし、たとえば、平均以下ながら自力で苦労して生活を成り立たせている人々からも税金を取り立て、無力な人々の生活を平均まで生活保護で引き上げてやるのは、公正か。国庫は無尽蔵の財布ではなく、だれかの生活向上は、ほとんどの場合、だれかの負担増によって賄われている。これは、むしろ国を介した人権侵害ではないのか。そんなことまで政府に委任した覚えは無い、と、今日、米国のティーパーティを初めとして、同じ自然法人権派から、人権を口実にむやみになんにでも介入してくる国にノーを言う動きが出て来ている。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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