熱と誠:北里柴三郎と官学統一派の妨害

2023.04.29

ライフ・ソーシャル

熱と誠:北里柴三郎と官学統一派の妨害

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/北里は、ベルリン大学で画期的な血清抗体療法を開発したが、帰国の目途が立たない。というのも、細菌学の権威、緒方正規が発見したと自負する「脚気菌」の存在を否定したからだ。官学派に「忘恩の徒」と罵られ、福沢が私財を投じて彼のために建てた伝染病研究所も取り上げられてしまう。だが、彼はそれでも不撓不屈の現場の熱と誠を貫いた。/

同研究所は付属病院で臨床治療に当たるとともに、北里はここでペスト菌などの研究を続け、志賀潔、秦佐八郎、野口英世らを育てる。そして、1901年、血清療法開発の功労で第1回ノーベル生理学医学賞候補ととしてノミネートされた。ところが、このころ、緒方が帝大医科大学長となり、その子分たちが日本の医学界を支配しており、北里に対してはあいかわらず支援どころか反発だらけで、賞はコッホの別の弟子のものとなってしまった。

この間にも、脚気は、結核と並ぶ国民病として蔓延し続けた。とくにひどかったのは陸海軍で、日露戦争でも、かなりの数の兵員が戦傷以前に出兵不可に陥り、戦況を悪化させた。にもかかわらず、森鴎外をはじめとする東京帝大医学部出の軍医たちは、いまだに「脚気菌」説を信奉して滅菌的対策に終始し、あたら病死者を増大させ続けた。そして、留学帰りの鈴木梅太郎が、1910年、米糠から脚気に有効なオリザニン(ビタミンB)を発見するも、日本の医学界は無視。それどころか、さらに1914年には、あいかわらず「脚気菌」の確定に必死な東京帝大医学部が強引に伝染病研究所を吸収し、北里らを追い出してしまう。

ときに北里、61歳。やむなく彼は自力で北里研究所を起して、頻繁に講習会を開き、全国の臨床医たちに先進の知見を普及。おりしも、明治天皇の御遺志で困窮者のための医療施設、済生会病院が創設され、北里はその医務主幹に抜擢される。1917年には、すでに亡き福沢のかつての恩に報いて、慶應大学に医学科を復興。1923年、ばらばらだった各地の臨床開業医たちを日本医師会としてまとめ、その初代会長に立てられる。官学派研究医たちが「脚気菌」説を疑い、栄養説に関心を示し始めたのは、第一時代戦後の米騒動や関東大震災による米不足の玄米食で奇妙に脚気が減ってからのことで、軍隊や一般の実際の食事改善、脚気対策はさらに遅れた。

1931年、北里、78歳で死去。その後、第二次世界大戦の激化とともに、1943年、日本医師会は強制的に解散させられ、帝大医学部教授で病原菌研究者、稲田龍吉が、大政翼賛として全国の臨床開業医を従属させる日本医療団総裁となる。戦後、GHQ管理下において、厚生省はその解散を決定したが、その完全清算には1977年末までかかった。

今日、いまだに日本学術会議などという大政翼賛、一党独裁、官学主導の残滓のような組織があるが、この脚気問題の経緯ひとつを取って見ても、斯界の見解の一本化などという誇大妄想そのものが、多様な可能性を謙虚に探る学術研究にそぐわず、国家国民にとっても危険で、また、人類文化の発展を阻害するものでしかないことがわかるだろう。北里が言うように、未来は、困難と向き合い、突破口を穿つ終始一貫、不撓不屈の現場の熱と誠にある。人が寄り集まって、たがいの顔色を伺う会議に、ではない。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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