平時武士道としての朱子学

画像: 朱熹『四書集注』

2016.07.08

組織・人材

平時武士道としての朱子学

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/とりあえず明日、勝って生き抜くことだけに全力を傾け、その始末は後でどうにか、という戦国時代と違って、天下泰平の江戸時代となると、大名も、後先の遣り繰り、世評の言い訳けを考えておかないことには、収支や名目が合わず、幕府が課する御役目も果たせない。そんな時代の変革期にあって、朱子学を学んだ新世代の武士たちは、武道はともかく、中間管理職として求められるレスペクタビリティの素養があった。/


 この後、中国はふたたび五代十国の混乱に陥り、960年にどうにか北宋が成立。ここにおいて、ようやく皇帝直属の官僚制を実現すべく、科挙を徹底する。しかし、試験科目は、実務に関わらない政治的な士大夫たちの古典趣味のせいで、実務能力よりも、古典学知に大きく傾き、伝統的な古典の『詩経』(詩賦集)や『書経』(演説集)の些末な暗記が中心となってしまった。


 1070年、日本では摂関政治が終わって上皇院政が始まるころ、王安石(1021~86)という宰相が登場し、大官僚、大商人、大地主を抑えて、若手の官僚や中小の商人や農民を活性化する「新法」の改革を興した。これとともに、さらに大言壮語するような有為の人材が抜擢されるようになり、政治の理想を熱く語る『論語』や『孟子』がようやく科挙でも重視されるようになる。


 とはいえ、『論語』や『孟子』は、時と場に応じて日常語で語られた対話集であり、孔子や孟子の全体的な政治思想体系など、いくら読んでも、よくわからない。しかし、もともと孔子の家業が葬儀屋で、世と人の吉凶幸禍を占うことを好み、『易経』の注釈も書いたとされるため、隋唐より前から孔子を民間習俗的な老荘思想の道教と関連付けようとする見方があった。そして、王安石と同じころ、『易経』の背景にある形而上学(世界観)を道教の陰陽五気でがっちり説明した「道学」が、周敦頤(しゅうとんい、1017~73)によって模索され、この道学によって『論語』や『孟子』のばらばらな対話集に出てくる日常的な字句言表を統一的な専門術語として厳密に解釈しようとする、むちゃくちゃ強引な思潮が、無務高位・些末学知・大言壮語を特徴とする士大夫たちの間でひそかに流行し始める。


 しかし、どう考えても、こんなもの、無理がある。まともな連中の間では、冗談以上に語るようなものではなかった。ところが、科挙で成績が悪く、地方に飛ばされた朱熹(1130~1200)は、『礼記』から勉学論の「大学」、修養論の「中庸」の二篇を抜き出し、これを『論語』と『孟子』の上に据え、道学に基づく細密な注釈を施した。朱熹は無名低位ながら、当時ようやく確立したばかりの木版技術で大量に『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書を印刷して中国全土に安価に流布し、その注釈に自説を紛れ込ませることによって、朱熹の解釈、朱子学こそが正統主流である、と世間に錯覚させることに成功してしまった。そして、中国の伝統文化がよくわかっていないモンゴル人の次の元朝(1271~1368)おいて、朱子学の解釈のみが科挙の正答であると国家公認を受けるところとなる。

Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。