全日空は堺港から飛び立った

画像: 日本航空輸送研究所:麒麟号(1936)

2015.11.05

開発秘話

全日空は堺港から飛び立った

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/かつて南蛮船が到来した堺港で、1903年、事実上の万国博覧会が開かれ、これをきっかけに、ここに壮大なレジャーランドが築かれた。そして、1922年、タクシー会社社長、井上長一は、この港から、払い下げの飛行艇を使って、日本最初の民間航空会社を飛び立たせた。この会社こそが、後に世界へ羽ばたく全日空となっていく。/


 いまの大浜公園は哀れだ。海を埋め立てられ、空高くまで高速道路の高架線に囲まれ、子供用の遊具がわずかばかり。ここにかつて南蛮船が到来して堺鉄砲の新時代をもたらし、また、戦前、世界的な博覧会が開かれて、多くの人々が日本の未来の夢を紡ぎ出した場所だったことなど、まさに夢のよう。まして、ここに日本の最初の民間航空会社が設立され、数万人もの人々を最新の飛行機に乗せ、九州や四国、和歌山への観光や遊覧に興じさせていた平和な繁栄など、いまとなっては想像もつかない。


 しかし、すべてがムダだったわけでもあるまい。「潮湯」は、辰野金吾が作ったとされる別館が、室戸台風の後の1935年に河内長野あまみ温泉に移築され、現在もなお旅館「南天苑」として生き続けている。一方、井上は、戦後、「極東航空」を再建し、これこそが国策の「日本航空」と対抗して、自力で世界にまで羽ばたいていくことになる民間航空会社の「全日空」へと発展。また、救難用として評価の高い国産飛行艇US-2は、防衛省も技術開示を決断し、民間用としての改造、海外諸国への輸出を計画している。


 幕府が壊滅した後の自暴自棄の不平不満から起こった西南戦争の拡大は、博覧会による企業興産の奨励が回避させた。今の時代、道路だの空港だの、産業基盤の施設整備ばかりやっているが、そんなもので、街ができるわけじゃない。飛行機が飛ぶわけじゃない。なにもない砂浜でも、ただの海原でも、しっかりとした夢さえあれば、そこに街ができ、飛行機さえも飛び立つのだ。むしろ国家の大義のような理屈を語って、奇想天外な夢を忘れたとき、街も空も潰えた。ビッグデータのマーケティング予測もけっこうだが、そんなところには希望も理想も無い。そうではない。「君がそれを作るなら、彼は来る」。いま一度、あの時代に忘れられた壮大な夢を思い出し、それを引き継ぐことを考えてみよう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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