キリスト教はローマ帝国に迫害されたか(2)

2020.09.30

開発秘話

キリスト教はローマ帝国に迫害されたか(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/キリスト教はローマ帝国の皇帝崇拝と多神教を拒否して迫害された、と答えることになっている。しかし、迫害ばかりされていたら、大帝国を乗っ取るほど教勢が伸びるわけがあるまい。/

そして、親衛隊長から成り上がったのが、フィリップ帝(位244~49)。彼は、本人が入信していたのではないか、というくらい、キリスト教を優遇します。しかし、ドナウ地方にゲルマン人が来襲すると、デキウスに大軍を預けて派遣。これが裏切って、自分が皇帝に。

J あー、こんな時代に大軍を任せるなんて、お人好しすぎますよ。

デキウス帝(位249~51)は、キリスト教、とくにローマ教会を、帝国に並ばんとする内なる脅威として迫害。ローマ司教ファビアヌス(位236~50)も殉教させられてしまいます。それで、ノウァティアヌス(位251~58)がローマ司教を僭称し、迫害における離教者の復帰を許さない強硬派として、皇帝との対決姿勢を強めます。しかし、テルトゥリアヌスの教えを継ぐカルタゴ司教キプリアヌスは、「教会の外に救い無し、サルス・エクストラ・エクレシアム・ノン・エスト」として教会の普遍性を主張しつつ、ノウァティアヌスの独走を牽制して、コルネリウス(位251~53)を正規のローマ司教に押し上げます。

デキウス帝がゲルマン人と戦って51年に戦死。253年、ドナウ軍の支持を得て皇帝になったウァレリアヌス帝(位253~60)は、軍人にしては温厚でした。その下で、ローマ司教ステファヌス一世(位254~57)が、ペトロ座、カテドラ・ペトリとして、他の諸教会に対する首長権を主張。これに対し、キプリアヌスは、すべての教会を同等として批判。しかし、ウァレリアヌス帝は、晩年、エジプト教信徒の高官にそそのかされ、258年にキリスト教を迫害、ローマ司教シクストゥス二世(位257~58)はもちろん、対立ローマ司教ノウァティアヌス、カルタゴ司教キプリアヌスも、みな殉教させられ、空位と混乱が続きます。

J ほんと、このころのキリスト教、内輪もめで大きな騒ぎを起こして、まとめて迫害されてばかり。

ところが、260年、ウァレリアヌス帝がペルシアとの戦いに敗れ、捕まって行方不明に。これに乗じて、アルプス以北・ブリテン・イベリア半島で、ガリア帝国が、小アジアからエジプトまで、パルミラ王国がかってに独立し、帝国は事実上の三分割になってしまいます。それで、後を継いだウァレリアヌス帝の子、ガッリエヌス帝(位253~68)は、もはやキリスト教に関わっている余裕などありませんでした。

ペルシア遠征にも従軍したプロティノス(c205~270)は、ローマに戻ると、プラトン後期の思想に、フィロやエピクテートスのロゴス論、インドのウパニシャッド哲学などを合わせたような流出説、エマナティオニスムを唱え始めます。それによれば、神とも善や美とも呼ばれる純粋な一、ト・ヘン、は、ただ存在するだけの不変のものですが、その自己認識の像が、理性、ヌースであり、霊魂は自由意志で好んで地上のものに宿り、理性をまねた雑多なものを体現しようとする、とされます。ここにおいて、人間も外に理性の世界を実現しようとするものの、肉体が個々ばらばらで連係が取れず、罪を犯してしまいます。そこで、人間は霊魂の内に一者への愛というエクスタシス、忘我によって、一者に回帰すべきであり、自分もまた、忘我を何度か体験している、と言います。

Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。