立ち食いそば・うどんチェーン店「名代富士そば」を日本国内に100店舗以上運営するダイタンホールディングスの丹道夫会長。 弁当屋から経営者のキャリアをスタートし、現在の「富士そば」を確立させるまでの半生にタケ小山が迫った。タケは富士そばの「天玉そば」で腹ごしらえをしてからインタビューに臨んだ。
立ち食いそば・うどんチェーン店「名代富士そば」を日本国内に100店舗以上運営するダイタンホールディングスの丹道夫会長。
弁当屋から経営者のキャリアをスタートし、現在の「富士そば」を確立させるまでの半生にタケ小山が迫った。タケは富士そばの「天玉そば」で腹ごしらえをしてからインタビューに臨んだ。
富士そばは眠らない
駅から歩いてすぐの距離、いわゆる“駅チカ”と言われる場所に100以上もの店舗を展開する富士そば。
24時間営業ということもあり、ひと気がなくなった深夜の街に富士そばの看板だけが光っているのを見かけたことがある人は少なくないだろう。
丹会長が富士そばに24時間営業を導入したのは今から40年以上前の1972年。当時、コンビニですらはじめてなかった営業スタイルを取り入れたのはなぜか。その理由を丹会長は、「タケさんだからなんでも話すけど…」と前置きしたうえでこう語る。
「今でも話すのが辛い思い出。5歳のときに母が再婚して、継父と母のあいだに弟ができると家に自分の居場所なくなってしまった。継父とも折り合いが悪く、中学卒業後はすぐに地元の愛媛から上京したけどなかなか食い扶持にありつけなくて、ベンチなんかで寝ていた。子供のころから寂しい思いをすることが多く、この歳になっても思い出すと涙が出る。24時間やっていれば、東京に出てきて寂しい思いをしている人が来てくれるかもしれないと思ったのがはじまり」
自分と同じように寂しい思いをしている人を救いたいと24時間営業の導入を決意。もちろん、それまでの常識にはなかった営業スタイルに社内からは反対意見もあったという。
「“そんな時間にそばを食べる人がいない”とか“そもそも働く人がいない”なんて言われたけど、従業員のなかにはいろいろな事情で深夜しか働けない人もいたりして人手が足りないなんてことはなかった。お客さんだと最初のころはタクシーの運転手さんなんかはすごく喜んでくれて、噂を聞きつけて東京中から来てくれたね」
弁当屋からスタート
そんな眠らぬそば屋をつくった男の原点は弁当屋だったという。
丹会長は10代から20代前半にかけ何度か上京と帰郷を繰り返し、東京の栄養士専門学校を卒業。病院の給食センターなどで働いたのち、食品関連の会社に入社。そこの会社が弁当屋を経営していたことをきっかけに自身も弁当屋として独立を果たす。
「母が東京にきたタイミングで家を買って、そこの軒先で弁当屋を開いた。広さは4.5坪で従業員は3人。当時はテレビや自動車に使うネジや部品をつくる工場で働いている人がたくさんいて弁当は飛ぶように売れた。自分の気取らない人柄もあってか、予期せぬトラブルが起きても周りの人が手を貸してくれた。配達用の車がパンクしたときには霊柩車を貸してくれる人がいてそれで配達にいったよ」
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