​なぜアレキサンダー大王は東征したのか:黄金の呪い

2024.02.26

経営・マネジメント

​なぜアレキサンダー大王は東征したのか:黄金の呪い

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/マケドニアがカッサンドラ金鉱を見つけたときから、フィリッポス・アレキサンダー親子、そして、これに付き従ったギリシア人たちは、破滅の運命へ転がり落ちていった。ペルシアには勝利したものの、その大国の重みを支えるだけの財力を持たず、結局、その最期まで、急場しのぎの資金調達の略奪戦争を自転車操業で続け、その終わりとともに、王帝は死に、帝国は解体してしまった。/

彼の遠征軍は「動く国家」と言われ、戦闘兵員だけでも数万。これにそのカンティーン(兵站や軍属)や家族が加わって、十万人規模。しかし、それが最初にめざしたのは、ペルシアではなく、エジプトだった。それは、ナイル中流ルクソール市の上エジプトが、ナイルデルタの下エジプトを征服してできた国。なぜそんなことができたか、と言うと、上エジプト王国は、東のナビア砂漠にコプトゴールドのスカリ金鉱を持っていたから。アレキサンダーのねらいは、それだった。そして、エジプトを征服すると、ギリシアとの貿易拠点アレキサンドリア市を造った。

この後、遠征軍は、ペルシアの中心、バビロン市、スサ市、そして、前330年春には早くもペルセポリス市を奪い取る。これらの大宮殿に蓄積されていた財宝によって、負債を返済し、出資に配当してもあまりある財務状況になった。あとはもうペルシアの大王として、既存の経常収税システムに乗っていればいいはず。ところが、調べてみると、大きな問題が発覚する。巨大ペルシアの国家財政を支えていたのは東半諸州からの収税だった。皇帝ダリウスが生きていて富裕な東半諸州で体制を再建した場合、貧弱な西半諸州しか持たないアレキサンダー大王は対抗できない。

なぜ高山と砂漠だらけの東半諸州が、それほど豊かなのか。じつは大王は知っていた。彼の祖国、ギリシアの北辺マケドニアは、黒海に近く、さらに北方の遊牧民族スキタイ人によって東からつねに大量のゴールドをもたらされていたから。アレキサンダーがペルシアの大王であるためには、拓けた文化的な西半のみに甘んじず、広大な砂漠(当時、冬の雨期は巨大湖)の向こう、東辺の諸州を奪い取ることが必須だった。それゆえ、大王は、ペルセポリス到着早々、他者に首都を簒奪されないよう、同市を焼き払って皇帝ダリウスの追撃を始める。

ところが、追撃を知ると、ペルシア軍は、「カスピ門」で皇帝ダリウスを自分たちで殺し、中央アジアへ逃げてしまった。アレキサンダー大王は、ヘカトンポリス市を中心にカヴィール湖(現在は砂漠)の周辺を探索したらしいが、亜鉛や銅しか無い。(金鉱は、じつはエクバタナ市北の西北部アゼルバイジャン地方にあった。)それで、バクトリア総督ベッソスが皇帝を僭称したことを理由に、ここからほんとうの東征を始める。

にもかかわらず、遠征軍は、バクトリアには向かわず、アフガニスタン山麓を大きく南に迂回してしまう。待ち伏せを避けるため、というより、金鉱を探して、だろう。実際、アフガニスタン最大の金鉱ザラフシャンのすぐ近くに、探索基地アラコシア=アレキサンドリア市を設置している。同様に、カブール市の北にも、コーカサス=アレキサンドリアを。ここも川で砂金が採れることが知られていた。このように、エジプトをはじめとして各地に設置されたアレキサンドリア市は、たんなる植民都市ではなく、金鉱探索の前線基地としての意味を持っていた。

Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。