1988年のソウル五輪で銅メダル、そして1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得――。体操選手として華々しい結果を残し、現在は体操選手の経営者としても活躍する池谷幸雄氏。世界の大舞台で演技をするというプレッシャーに打ち克ち成果を出す秘訣を聞いてみた。 (聞き手・仙石実・公認会計士、税理士/構成・Tokyo Edit 大住奈保子)
休みなく練習を続けた子どもの頃。
小学生のときには「体操で生きていこう」と決めていた
(仙石)はじめに体操を始められたきっかけを教えて下さい。
池谷 体操は4歳のころ、両親の勧めで始めました。両親としては体操を本格的にやらせたいというよりは、体操が他のスポーツに取り組むきっかけになればと考えていたようです。体操は身体のバランスや柔軟性を養うものなので、早いうちから取り組んでおけばどんなスポーツにも役立つ基礎的な運動能力が身につきます。
体操はそういった基礎的な身体能力が必要で、みんなができるスポーツではないというところが、一番魅力を感じたところでした。人と違うことができたというのが、うれしくて。数あるスポーツの中でも自分の性に合っていたので、長い間続けられたのかもしれませんね。
(仙石)その後中学受験を経験されて清風中学に入学されたのですね。
池谷 はい、そうです。スポーツの名門校としてオリンピック選手を多数輩出しているということもあって清風中学を受験し、入学しました。ちょうどその頃、清風中学では推薦で生徒を採って体操選手を6年間一貫教育で育てていこうという、新しい取り組みが始められたところでした。
小学校3年生で体操を本格的にやり始めたときからの夢がオリンピックだったのですが、オリンピックのことを本当に理解していたわけではありませんでした。
中学2年生でロサンゼルス五輪を観てはじめて「オリンピックってこんなものなんだ」と思ったくらいで、まさか次のソウル五輪に自分が出ているなんて、まったく思ってもいませんでしたね。
(仙石)そうだったのですね。ソウル五輪に出場するまでには、どのくらい練習を重ねられたのでしょうか。
池谷 基本的に、ほぼ毎日休みなく練習です。軽練習といってトレーニングとか柔軟だけという日はあるものの、中学・高校時代を含めて365日、毎日練習していましたね。体操にはシーズンオフというものもありません。
途中には辞めたいと思ったこともありましたが、両親のサポートもありそれを乗り越え、小学校5年生の後半くらいからは「体操で生きていこう」と思っていました。選手として活動したあとは指導に携わりたいというのも、この頃から思い描いていましたね。
プレッシャーに打ち克つ力は
努力に裏打ちされた「平常心」から生まれる
(仙石)ソウル五輪で銅メダルを取られましたが、結果を残すことができたのはなぜだとお感じですか。
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