京都の魔窟:朱子学から古学へ

2016.07.22

開発秘話

京都の魔窟:朱子学から古学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/江戸時代初期、京都は素性不明の浪人たちの吹き溜まりだった。そこに、土佐藩からやってきた極右朱子学者の山崎闇斎が塾を開いた。その向かいの材木屋の源吉(伊藤仁斎)は、神経を病み、引きこもっていたが、朱子学を吹っ切って古学を起こす。土佐藩のクーデターの後、闇斎は、将軍補佐の保科正之に取り入る。林家の弟子の山鹿素行もまた古学を考えたが、運悪く、保科と闇斎の逆鱗に触れ、死を覚悟しなければならなくなる。/


 正直なところ、大名家なども、じつは戦国の成り上がりで素性の怪しい一族が少なくない。1644年、博覧強記で知られる朱子学者、林羅山は『官営諸家系図伝』を作り、その洗い直しを幕府に報告。だが、これには、肝心の大物、日本の中心の一族の系図が欠けていた。家光は、羅山に日本通史の編纂を命じる。羅山は体調不良ながら神武から宇多まで紀伝体でどうにかまとめるも、51年の家光の死没で中断。おまけに57年正月の明暦大火で林家資料も消失、羅山も意気消沈し数日後に亡くなってしまった。



怪人山崎闇斎


 明暦大火の少し前の1655年、松永家の講習堂から北へ1キロほど行ったところ、現下建立売団地の裏、大学生協学生会館のすぐ南(石碑あり)に、突如、大きな私塾が現れる。山崎闇斎(1619~82)、36歳。いまだ若輩無名の一儒学者が、土佐から上京していきなり、こんな京都の中心の一等地に、私財で私邸を構え、大量の門弟を集めて塾を開く、などということが可能だろうか。


 じつはこのころ、土佐藩では気鋭の若手家老、野中兼山(1615~1664、40歳)が劇的な藩政改革を強引に推し進めていた。農地開発や殖産興業に努め、集税徹底と贅沢禁止、そして、なによりこの改革のために、旧門閥を排し、身分にこだわらず、内外から有為の人材を登用していた。浪人鍼医の子で比叡山小坊主になったが、寺から放逐されて土佐に下った山法師崩れの山崎闇斎。彼もまた、兼山に拾われ、土佐の寺で南学の谷時中らに朱子学を学び、そのブレインとして辣腕を振るった。そして、さらなる人材発掘と情報収集のために、京都の出先機関として闇斎塾が作られたようだ。


 とはいえ、この闇斎、若いながら、怪人としか言いようがない。幕府創設期にあやしげな呪術で背後から将軍たちを振り回した天海にも匹敵する。朱子学者も朱子学者、それも江戸官学の林家が恐れるほどの超極右派。「朱子を学んで誤らば、朱子とともに誤るなり。なんの遺憾か、これあらん!」というくらい、一字一句、朱子の文言を厳守。それどころか、朱子や孔子よりはるか以前、中国の伝説の神皇、伏羲(ふつぎ)以来の道統を我こそが継ぐ、と称し、当時の中国、明の学者連中など論ずるに足らず、と切って捨てる。


 その実践もものすごい。彼が言う朱子学の奥義は、「敬」。といっても、誰かに対する尊敬ではない。一片の隙も無いほど自己自身の精神集中、一言でいえば殺気だ。闇斎塾では、凍り付くような静謐が守られ、だれもが頭をふせたまま、激昂する闇斎の怒号講義だけが響き渡り、弟子たちはひたすら闇斎の終わりのない神がかりの言葉を書き取る。そして、まちがって師の闇斎と目が合ってしまおうものなら、あまりの恐ろしさに、弟子は思わず小便を漏らしてしまうほどだったとか。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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