『忠臣蔵』の裏事情:吉良こそが将軍家

2015.12.09

ライフ・ソーシャル

『忠臣蔵』の裏事情:吉良こそが将軍家

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/吉良家は、徳川家にとって本来の主君で、先任上位の将軍家。そんな事情も知らず、刃を抜いた浅野の若殿のせいで、あの事件は起きた。忘年会などでも、裏の本当の深い事情も知らぬことに口を挟むと、ろくなことにならない。/

 とはいえ、吉良のじじい、すこぶる評判が悪い。本来ならば将軍の主家なのに、土豪上がりごときの徳川家配下なのが気に入らん、というのは、少しはわからないでもない。だが、こいつ、それだけでは済まない。出羽米沢30万石の上杉家から嫁を取り、義父が1664年に嫡男跡継の無いままに亡くなると、自分の息子(三歳)を上杉家の末期養子(死後の跡継)に送り込み、上杉家を乗っ取って、豪邸の新築から、日々の贅沢まで、上杉家にツケを回す。高家としても、勅使接待を任じられた大名たちの指南をすることになっているのだが、あちこちで陰湿なイジメを繰り返し、金品贈答の賄賂を強要しており、あの1701年3月14日午前10時の事件は、起こるべくして起こった。

 吉良上野介を切りつけた浅野内匠頭(たくみのかみ)、34歳。赤穂5万石は、安芸(広島)42万石、浅野家の分家。信長、秀吉の家臣を経て、関ヶ原で徳川方に付き、譜代大名になった家柄。とはいえ、江戸生まれの江戸育ち。所領赤穂に行ったのは、家督を継いだ17歳になってから。本所の「大名火消」として、旗本の「定火消」や町人の「町火消」と伊達を競った。(江戸の大火など、火消が消せるようなものではなく、実際は、燃えさかる炎を背景に、人々に度派手な衣装を何度も「お色直し」で披露していただけ。どのみち借家で財産も無い庶民連中は、火事は「江戸の華」と思っており、むしろ復興再建需要で景気が良くなるのを歓迎した。また、本所には吉良邸があり、恨みは、このころからの因縁かも。)

 こんなアホでヤンチャな若手の殿様からすれば、吉良のじじいがなんであんなにえらそーなのか、まったく理解できなかったにちがいない。ただ、やなやつ、やっちまえ、というだけだったのではないか。周囲にしても、名門だかなんだか知らないが、武家のくせに、殿中差(短い儀礼用の刀)の柄打(刃を抜かず、柄の先で喉元を突く)の一手も返せず、まともに眉間に傷を受けるとは、なんとも情けない、というのが本音だったのではないか。一方、徳川家は、本来の主家が自分の殿中で自分の譜代に切りつけられてしまった、ということで、勅使の来訪中にもかかわらず、あわてて内匠頭を即日に切腹させ、「高家」に詫びを示す、という混乱ぶり。

 浅野家ほかは、喧嘩両成敗、を主張したが、それは、まさに足利家が定めた室町幕府の建武式目の話。江戸幕府は、理非吟味を旨とし、喧嘩両成敗の慣習を排している。しかし、それなら、理非吟味も無しの即日切腹は幕府武家法にも反している。いろいろ始末に困って、翌1702年末の討入りは、上杉家も関与を禁じられ、いわばお膳立てされたもの。内匠頭が伊達を誇った度派手な火消し装束の四七名。あまりにあっけない吉良の最期。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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