『忠臣蔵』の裏事情:吉良こそが将軍家

2015.12.09

ライフ・ソーシャル

『忠臣蔵』の裏事情:吉良こそが将軍家

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/吉良家は、徳川家にとって本来の主君で、先任上位の将軍家。そんな事情も知らず、刃を抜いた浅野の若殿のせいで、あの事件は起きた。忘年会などでも、裏の本当の深い事情も知らぬことに口を挟むと、ろくなことにならない。/

 1702年12月14日に事件は起こった。赤穂義士討入り。吉良上野介(こうずけのすけ)、当時60歳。4200石の旗本(徳川家の直臣)。とはいえ、吉良家は、武功を挙げて旗本になったわけではない。

 後に室町幕府を開くことになる足利家は、その名のとおり栃木県足利の出だが、それ以前、鎌倉時代の承久の乱(1221)で三河国(愛知県東部)守護の位も得る。そして、この地の分家筋の足利家が地名を取って「吉良家」と呼ばれた。室町時代になると、吉良家も天皇警護で京詰めとなり、代わって吉良家のさらなる分家の一色家が三河国守護とされた。しかし、一色家は、伊勢湾一帯に勢力を拡大し、あまりに強大になりすぎたため、1440年、足利本家が、三河土着の細川家(後の肥後熊本国主)命じて、これを暗殺。以後、同地は混乱。その中で、土豪の松平家(徳川家)が支配を確立していく。

 ところで、駿河国(静岡)の今川家も、もともとは足利の分家で、吉良家に次ぐ家格。しかし、戦国時代の1549年、今川家が三河まで進出。吉良家の義安(13歳)と松平家の家康(6歳)を人質にした。だが、公家かぶれの今川家においては、当然、親族で、それも上位の吉良家の御子息様のもてなしと、松平某とやらのガキのあつかいは異なり、ここで家康は、三百年以上の歴史を持つ「吉良家」の身分というものを、いやと言うほど思い知らされたことだろう。

 また、歴史の教科書だと、室町幕府は、足利義昭を最後に、1575年に信長に京を追われて潰えたことになっているが、実際は、その後も毛利家の庇護の下、将軍として備後の鞘(福山)に亡命幕府としての権威権限を保ち続けていた。むしろ1582年に本能寺の変で信長の方が先に死に、87年、九州平定に向かう秀吉がわざわざ会いに伺い、88年、義昭は京に戻り、ようやく将軍を解官。その後も秀吉に山城槙島1万石の「大名」として遇されている。

 ただ、子が絶え、足利の本家筋は断絶。このために、吉良家が足利家を継ぐ形となった。つまり、吉良家は、名目上こそ江戸幕府の「旗本」ということになっているが、徳川家からすれば、吉良家の方が三河国の本来の主君で、将軍家としても先任上位。まして、いかに実権があろうと、三河の土豪上がりにすぎない徳川家は、直接に皇室と話すには家格が違いすぎる。そこで、吉良家を特別な「高家」とし、徳川家を皇室に取り次ぐ儀礼典範の役目をお願いしていた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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