「諦める」とは「明らめる」こと

2011.09.08

仕事術

「諦める」とは「明らめる」こと

村山 昇
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表

「どう働くか」「どう生きるか」を考えるとき、自分にとってのロールモデル(模範となる存在)を見つけることは大変重要である。私が最近出会ったロールモデルを一人紹介しよう。

「美しいものが実によく見えるようになったから、
もう絵は描かなくていいんだ」。 
───梅原龍三郎

 梅原龍三郎(1888-1986年)は戦前・戦後の日本を代表する洋画家である。冒頭の言葉は、梅原と親交の深かった画商・吉井長三氏の半自伝『銀座画廊物語』の中で紹介されている。梅原の最晩年のエピソードを吉井氏はこう書いている―――

  ある日、(梅原)先生のお宅にうかがうと、
  「今朝起きたらバラがあんまり綺麗だったから、10号のキャンバスに描いてみた」
  と仰り、書生の高久さんに、
  「吉井君にその絵を見せてあげてくれ」と言われた。
  高久さんが怪訝な顔をして、
  「どこにあるんですか。今朝そんな絵をお描きになりましたか」と言うと、
  「いや、描いた。そこに伏せてあるからね、それを見せてあげなさい」
  と念を押される。しかし、絵はどこにもなかった。
  この話を数日後、私は小林秀雄先生にした。
  「梅原先生も最近錯覚するようになりましてね、
  描いてないものを描いたと言っておられるんですよ」と言うと、
  「それは君、錯覚じゃないよ。それは空で描いているんだよ。
  そういうことを勘違いしてはいかん」と小林先生は言われた。
  「これは素晴らしい話だよ。言葉が絵なんだから」

  最晩年には、高久さんがキャンバスや絵の具を用意しても、
  梅原先生は絵筆をとろうとしなくなった。そして、こう仰った。
  「美しいものが実によく見えるようになったから、もう絵は描かなくていいんだ」

 「もう絵は描かなくていいんだ」―――私はこの末尾の一行を読んだ刹那、思わず唸り声を上げてしまった。繰り返し読むほどに、梅原のこの一言はなんとも重く、広く、味わい深い。
 表現する営みがすなわち生きる営みである芸術家にとって、表現をやめるなどということは、ふつう考えられない。私のような半端なもの書きであっても、死ぬ間際まで何かを書き続けたい、思考と技術を向上させたい、形にしたものを人に触れさせたいと熱望するものだ。モネは、ほとんど視力を失っても睡蓮を描き続けようとしたし、マティスは、筆が持てなくなると、今度はハサミを持って切り絵で表現しようとした。ベートーベンは聴力が不自由になっても、耳をピアノの板に押しつけながら第九を遺した。ピーター・ドラッカーにしても、最晩年に記者から「これまでの最高の自著は何か」と訊かれ、「次に書く本だよ」と答えたという。
 風貌や画風から見てとれるとおり、豪放磊落な生命が横溢するあの日本洋画壇の巨人が、そうやすやすと「もう描かなくていい」とは口にするはずがない。それだけにこの一言を発した心境を想像することは実に面白い。

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村山 昇

キャリア・ポートレート コンサルティング 代表

人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。

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