男色武士道:天下泰平の新キャリア

画像: 人倫訓家図彙から

2016.06.23

ライフ・ソーシャル

男色武士道:天下泰平の新キャリア

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/男色は戦国時代以上に江戸初期に爆発的に流行した。武功で出世する道は途絶え、その一方、体制整理で大量の無頼浪人や無役の下級武士が溢れていた。ここにおいては、美少年のうちから将軍や藩主の寵愛を受け、大役に抜擢されるしか、「武士」として生き残り、昇進出世する方法がなくなってしまったからだ。/

 男色の是非はどうあれ、男相手でも、女相手でも、色恋沙汰が職場に持ち込まれると、組織はゆがむ。江戸幕府前半は、とくにひどかった。男色は戦国武士の遺習、つまり、戦場に女性を連れ行けないためのやむをえざる習慣が残ったもの、とされることが多いが、史実を追っていくと、むしろ天下泰平の江戸時代になって爆発的に流行した様子が各所に伺える。


古参重臣の凋落



 戦国時代以前から殿様の身の回りの世話のために稚児小姓が置かれ、これが殿様の男色寵愛を受けるということは珍しくなかった。しかし、それはあくまで私事であり、一族の大事は重臣合議制が基本だった。徳川家も、家康(1543~1616)幼少のときから、酒井左衛門尉忠次(1527~96)をはじめ、大久保忠世(1532~94)、石川数正(1533~93)、石川家成(1534~1607)、成瀬正一(1538~1620)、日下部定好(1542~1616)らがしっかりと脇を固めていた。彼らは古参として「年寄」と呼ばれ、「老中」と敬称された。



 ところが、1575年、家康32歳のとき、遠州の没落豪族、井伊家から直政(1561~1602、14歳)が小姓として送り込まれる。井伊家は甲斐武田に城を奪われ、ほかに跡継ぎも無く、これが最後の一策だった。しかし、直政は美少年。計略どおり家康の深い寵愛を受け、その親衛隊として、小田原征伐でも、関ケ原の戦いでも、大いに武功においても活躍。以後、井伊家は大老四家の一つとして隆盛を極めることになる。まさに「尻一つで御家再興」。



 稲葉(岐阜)城を取って戦国の火蓋を切った美濃斉藤一族の一人、斉藤利三は明智光秀の重臣で、光秀とともに本能寺の変(1582)で信長を討ち、秀吉に処刑された。その娘、福(後の春日局、1579~1643)は、母方の稲葉家に引き取られ、秀吉配下の稲葉重通(美濃清水国大名、1万2千石)の養女となり、その婿養子だった正成(1571~1628)の後妻となる。正成は秀吉の命を受け、小早川秀秋の家老5万石となるも、関ケ原の戦いでは秀秋を徳川方に寝返らせた。



 しかし、1602年、秀秋が死去、小早川家は断絶、稲葉正成は浪々の身となってしまった。おりしも04年、徳川家に家光(1604~51)が生まれると、福(25歳)は、正成(33歳)と離縁して、家光の乳母「春日局」になり、実子(正成三男)、稲葉正勝(1597~34、7歳)も、乳兄弟として、家光の小姓となる。ところで、同じくかつて小早川家に仕え、稲葉正成の先妻の娘と結婚していた堀田正吉(1571~29、34歳)もまた、05年、幕府に御家人500石で取り立てられ、その後に生まれた長男、正盛(1609~51)もまた家光の小姓として寵愛を受ける。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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