​革命期のドイツ観念論:カントからキルケゴールまで

2020.12.04

開発秘話

​革命期のドイツ観念論:カントからキルケゴールまで

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/カントは、理性の限界とともに実践の領域を発見した。しかし、そこでは、現実との対決が待ち受けており、ばらばらの自己定立が人々の同一性を打ち壊す。ヘーゲルは、ここに、学習し発展していく世界理性という新たな神を見たが、フォイアーバッハやマルクスは、唯物論としてモノの支配と人間性の疎外を疑い、共同体による革命の必要性を説いた。だが、キルケゴールは、カントに戻って、神は理性の限界の向こうに置き直し、それを支点として、他人とは異なる生き方、単独者としての実存を問うた。/

/カントは、理性の限界とともに実践の領域を発見した。しかし、そこでは、現実との対決が待ち受けており、ばらばらの自己定立が人々の同一性を打ち壊す。ヘーゲルは、ここに、学習し発展していく世界理性という新たな神を見たが、フォイアーバッハやマルクスは、唯物論としてモノの支配と人間性の疎外を疑い、共同体による革命の必要性を説いた。だが、キルケゴールは、カントに戻って、神は理性の限界の向こうに置き直し、それを支点として、他人とは異なる生き方、単独者としての実存を問うた。/


1.カント(1724~1804)

経験主義か、合理主義か。その論争の末、カントは、『純粋理性批判』1781を記した。彼は、経験的に実際の雑多な認識が入る前の純粋で合理的な認識のしくみを検討し、ここから、そもそも認識には限界があることを明らかにする。彼によれば、実際の雑多な物事の認識に先立って、我々は、我々の側にあらかじめ純粋な認識のしくみ、感性・悟性・理性を整えており、このしくみに合う物事しか認識できない。

ここにおいて、自分や世界、神などというものは、認識される雑多な物事をまとめておくための認識のしくみ、認識以前の純粋な理性の理念であって、これらの理性の理念そのものは、認識の対象とはなりえない。いわば、さまざまな物事を入れる我々の側の認識の袋で、その袋を外側から見ることはできない。

したがって、カントは、自分とは、世界とは、神とは何か、を語るのは、理性の越権である、と批判した。そして、これらは、認識的な内容ではなく、信念的な目標として、永遠の地平線のかなたにある、と考えた。

ところが、カントは、フランス革命の直前の1788年、『実践理性批判』において、経験は義務を導かない、そこには自由がある、ということを示す。たとえ、○○である、としても、それは、○○でなければならない、ということにはならない。まして、自分とは何か、世界とは何か、は、答えがわからないどころか、そもそも対象として認識すらできない。

つまり、それは、これまでどうであれ、これから、自分も、世界も、なんにでもできる、ということを意味する。まさに革命的な思想だ。ただし、何かにしていくには、そこに合理的な理性が必要になる。それも、その過程でやることが、その後、前例となり、普遍的規則となっていくことを、あらかじめ覚悟しておかなければならない。これが、理論理性の先の実践理性だ。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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