幸せそうに見えるは幸せであることを意味しない

2014.10.18

ライフ・ソーシャル

幸せそうに見えるは幸せであることを意味しない

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/本当の幸福は目には見えない。見えるものは、幸福の結果にすぎない。幸福でもないうちから、地位や財産、人脈など、幸福の結果だけを追い求めれば、自分の人生を安売りして、かえって不幸が増すばかり。/

 本人が幸せだと思っているなら、それが幸せなのだ、などと言う人がいる。いわゆるシロウト哲学者の通俗的な幸福主観説。だが、これはまちがっている。そして、こんなまちがった考え方こそが、あなたをむしろ不幸へと導いてしまう。

 たとえば、麻薬。本人は多幸感に包まれている。しかし、麻薬に溺れている人間、溺れる状況が幸福か。そのうえ、こういうまちがった幸福、つまり不幸に陥ってしまっている人間は、自分でそこから脱出することもできない。詐欺や悪徳宗教に騙されている人も同じ。本人が幸せであると思っているほど、不幸なことはない。アリストテレスの定義によれば、幸福とは、恵まれた人生のこと。それは、事実の問題で、感覚の問題ではない。麻薬や詐欺に取り囲まれてしまっている生活が、恵まれた状況であるわけがない。

 逆に、本当に幸福であると、幸福であるとはわからない。それは、背の高い人が、背が高いと実感できないのと同じ。人間は、差分しか認識できない。不幸から幸福になれば、もしくは、幸福から不幸になれば、それはすぐにわかる。だが、いつも幸福であれば、それがいつも当たり前で、空気同様、とくになにも感じない。それどころか、恵まれすぎて、どうでもいいようなことを大きく考え、やたら不幸がっている人もいる。それは、そんなことで不幸がっていられるくらい恵まれていればこそ。

 地位や財産、人脈など、人は、幸福そうに見える人をうらやみ、自分もそうありたいと願う。ところが、奇妙なことに、これらを追い求めると、逆に幸福を失うことも多い。これらは、あくまで幸福の結果であって、幸福でもないうちから、幸福の結果を先に得てしまおうとするのは、無理な前借と同じ。いずれそのツケが戻って、クビを締めることになる。たとえば、円満な夫婦に赤ちゃんが授かるのであって、赤ちゃんを授ってさえしまえば、円満な夫婦になれるなどと考えるのは、大きなまちがいだ。

 逆に言えば、見せかけとして結果しない幸福もいくらでもある。たとえ赤ちゃんが授からなくても円満な夫婦がいくらでもいるようなもの。生活能力があって、やりくりがうまく、良い家族や友人がいるのであれば、それが恵まれているということ。地位を昇り、財産を成し、一派を築く、などというのは、むしろ言わば、幸いに恵まれた人の、世間のためのおまけのボランティアのようなもの。

 いまだふだんの生活が整ってもいないうちから、地位や財産、人脈を追い求めるのは、自分の人生を世間の見栄のために安売り、切り売りしているのと同じ。見せびらかしの偽の幸福の代償として、体を壊し、家族を裂き、友人たちを裏切っては、本当の幸福を味わうはずの自分も失ってしまう。そのうえ、たとえそこまでして地位や財産、人脈を得ても、能力が値しない、親族知人が争う、見えかけばかりが立派で、本人が劣等感に打ちひしがれる、等々、かえって不幸が増すばかり。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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