疎外と搾取:唯物論と共同体主義

2017.11.07

ライフ・ソーシャル

疎外と搾取:唯物論と共同体主義

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/もともと物は人間の生活の手段にすぎなかったのに、いつの間にか、物が自己目的化して、物を作るため、文明を発展させるため、人間の生活の方が犠牲にされるようになる。費用対効果を総合的に見積もることが大切だ。費用や手間の大小にかかわらず、最終的な成果が自分や世の中の幸せにつながらないのであれば、それは疎外だ。自分だけが幸せになって、他人を不幸にするのなら、それは搾取だ。/

 近代は、デカルト以来、個人の理性に絶対的な信頼を置いてきた。きちんと理性を働かせれば、だれでも真理を得ることができる、と。しかし、カントに至って、個人の理性には限界があることが示され、ナポレオン時代のヘーゲルにおいては、もはや個人の理性などというものは、時代精神に振り回されているだけの傀儡と喝破された。なにかよくわからない世界理性なるものがあって、それが知識を学習していく過程において、人間どもを使っていろいろ実験してみているだけ。個々人は自分で考えているつもりでも、じつは世界理性の時代精神に、心も体も乗っ取られてしまっている。

 ヘーゲルの弟子筋のフォイアーバッハは、この正体不明の世界理性を、単純に、実在の物と考えた。世界の物理的状態こそが条件となって我々を支配している。これが「唯物論(マテリアリズム)」。いわば蟻塚が蟻どもを使って成長していくように、物としての世界が自己発展していく。人間どもはそれぞれ自分で考えて働いているつもりになっているけれど、じつはその発展に寄与するように、使い潰されている。

 彼に言わせれば、神も文明も同じ。もともとは人々が人類の本質を外化して創り出したものだったのに、それがいつの間にか個々人の自由を奪い、思想も行動も強制支配するようになる。この自縄自縛を「疎外」と言う。

 さらにその弟子筋のマルクスは、この考え方を洗練して、「唯物史観」を唱えた。物は、人間に物を作る道具を作らせ、道具を作る機械を作らせ、やがて物や道具や機械は、みずからどんどん作られるようになっていく。もともと物は人間の生活の手段にすぎなかったのに、いつの間にか、物が自己目的化して、物を作るため、文明を発展させるため、人間の生活の方が犠牲にされるようになる。

 そこには、四つの疎外がある。一つは、成果からの疎外。自分の作った物を、他人に売り渡して、自分のものではなくしてしまう。二つめは、仕事からの疎外。物を作るという人間の本質的な能力から売り渡してしまい、他人の言うがままに働かされることになる。三つめは、人類の疎外。働くという人間の本質的な能力を他人に売り渡してしまった結果、もはや自分自身で考えることも行動することも許されず、人類の一人でありながら自分からは人類の歴史に関与できない。そして、社会の疎外。同じ人間でありながら、たがいに他人を物や道具としてのみ利用しようとし、他人がすべて敵となる孤独な個人の孤立へと追い込まれてしまう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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