/講義は、知識伝達ではなく、義を講じるもの。つまり、意義の動機付けこそが、主軸。知識については、本来、自分で図書館で学んでおくのが筋。こんにち、Eラーニングとか言っているものの大半は、知識伝達のための教材を紙の講義録からデジタルに置き換えただけ。それでも、Eラーニング市場は、じつはかなり大きく、ゲームやアニメより日本のコンテンツ産業の可能性が開けている。/
いまどき、古いノートを読み上げ、板書を写させる、なんていう講義は、学生に見捨てられる。かと言って、アクティヴ・ラーニングの美名で、学生たちに好き勝手にしゃべらせ、遊ばせているだけというのも、どうかと思う。
昔から、地方や勤労、貧困など通学困難な事情下にあっても、正規学生の講義録ノートを譲り受けて、勉強しようという篤学の者はいた。また、往復書簡によって、師の指導を仰ぐ、ということも、古来、ずっと行われてきた。また、ラジオやテレビの発達とともに、語学講座は人気を集めた。世界的にみれば、1958年にロンドン大学が、通信学習生にも正規学位を認定するようになり、世紀末から20世紀初頭にかけて、そしてまた、第二次世界大戦後に、さまざまな手法が工夫され、通信教育が発達した。
自分も、長年、大学の通信教育に関わってきたが、正直なところ、日本でうまくいったとは言いがたい。というのも、大半の通信制学生の就学理由が「大卒」資格取得の一点のみであり、とにかくとっとと適当に卒業したい、というだけだから。とはいえ、これは、通学生の学生も大差あるまい。就学名目で上京し、都会の生活を満喫したい、「大卒」資格を取って、就職の足がかりにしたい、というだけで、大学で勉強をしよう、などと思ってはいない。
欧州や米国の大学と較べてみると、これはかなり異常だ。とにかく日々の課題の量が半端ではなく、大学生活と言えば、ひたすら図書館で勉学、と決まっており、都会かどうかなど問題にならない。授業料は欧州のように原則無償であったり、米国のように全寮制で法外な高額であったりするが、いずれも、いい加減な学生のほとんどを振り落とし、かんたんに卒業とはならない。そして、日本以上に就職に大卒学位が意味を持ち、雇われる側から雇う側、経営側になるには、修士以上が求められる。
欧米の大学はもちろん、日本の大学の通信制においても、一般にスクーリング、つまり、期間限定でも登校して教授の講義を受講することが必須。というのも、大学の講義というのは、二つの面から成り立っている。
1 知識の伝達
2 意義の動機付け
講義録や放送を提供する通信制でも、1はできるが、2ができない。通信制は、勉学の動機がもともと自分にあることが大前提。
つまり、本来、「講義」は、「義」を講じるもの。その元となる知識は、図書館で自分で学んでおけ、というのが大学の姿。ところが、日本の大学は、明治時代、まだ図書館が十分ではなく、国家を担うエリート人材を養成する、ということが、学生にも教授にもあまりに当然自明の前提であったので、教授は舶来知識の伝達に終始し、動機付けの教育を行う必要がなかった。しかし、戦後に大学が爆発的に増大拡大しても、この「片手落ち」の悪習が続き、調べるだけならネットの方が早い、大学など行かなくていい、などとバカガキどもに揶揄される始末。その結果、大学は通っているだけ。「講義」を「抗議」とか「講議」とか書くマヌケ学生がゴロゴロ。
時事
2012.06.10
2017.04.17
2017.05.05
2017.08.18
2017.09.30
2017.11.24
2017.12.01
2018.02.06
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
