デカルトの主観主義:引きこもりとカルト

2017.09.16

ライフ・ソーシャル

デカルトの主観主義:引きこもりとカルト

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/近代は権威が失われた時代。引きこもりのデカルトは、自分の見聞や論理など当てにならない、と疑い、その疑いにおいて自分を取り戻した。現代もまた、ナショナリズムの権威が崩れた後、引きこもりが出て来た。しかし、それは集団カルト。個人の引きこもりより、はるかにタチが悪い。/

 大きな流れで言うと、近代というのは、ルネサンスより後、ナショナリズムより前。日本では、おおよそ戦国時代から明治維新までに当たる。中世までの宗教や政治の統一的で支配的な権威が崩壊し、個人の個性が解放され、多種多様な思想や芸術が花開いた。

 それまで、つまり、中世は、秩序に従い、ヒトと同じであることが求められた。この秩序に逆らえば権威から破門され、社会全体から放逐された。しかし、近代になると、秩序の根拠が疑われ、たとえ逸脱しても、これを討伐する総意が成り立たなくなった。つまり、やりたい放題。

 思想、とくに哲学において、これは大きな問題となった。以前であれば、聖書に書いてある、法王が言った、昔からそういうことになっている、で済んだ。ところが、コロンブスのようなのが、これまでの常識を覆し、西回りでも東のインド(ほんとうは新大陸だが)に行ける、地球が丸い、ということを実証してしまう。メディチ家のような商人が、法王の奇跡よりよく効くイスラムの薬を売り出してしまう。ルターに至っては、教会の言っていることがそもそも聖書とは違う、だいいち聖書に法王などという文言は無い、ということを暴き出してしまう。

 こんな時代に、デカルト(1596~1650)が出てくる。ウラなりで引きこもりの嚆矢のようなやつ。親が金持ちで、学校ではよい子。貴族の倣いとして、軍隊に入ったものの、それは名ばかり。ドイツだの、イタリアだの、フランスだの、旅行して、結局、オランダに戻り、41歳まで引きこもり。

 とはいえ、彼なりにいろいろ悩んでいたらしい。いちばんの問題は、書物を閉じ、世界を見てこようとしたのに、どこへ行っても、結局、自分がついてきてしまったこと。自分自身から逃れられない。それも、その自分が世界の見方、書物の読み方にまで大きな陰を落としてしまっている。ひょっとして自分はおかしいんじゃないか、いつも悪霊に騙されているじゃないか、と神経衰弱。

 かといって、いまさら、聖書に書いてある、法王が言った、だから、まちがいない、などということは信じられない。そこで、彼は、自分の見識の中で、とりあえず怪しいものは、いったんぜんぶ排除してみよう、という「方法的懐疑」を試みる。自分で見た、聞いた、確かめた、なんていうのは、彼からすれば、もっとも当てにならない。それこそ、錯覚や誤解の宝庫。じゃあ、1+1=2みたいな、感覚に依存しない論理ならどうか。これも、たとえば、まちがって覚えている九九のように、論理そのものが歪んでいるかもしれない。しかし、このように自分が疑っている、ということそのものは、事実であり、真実だ。むしろ、疑う、ということで、そこに対象の世界とは別に、自分というものが立ち現れてくる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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