大阪都よりも堺県の独立再興!

2015.04.11

経営・マネジメント

大阪都よりも堺県の独立再興!

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/大阪都構想だかなんだか喧しいが、歴史的にも、経済的にも、文化的にも、堺は大阪じゃない。そのアホの始末に毎度、利用されるのは、いいかげん勘弁してほしい。/

 堺、なんて言ったって、関西以外の人には、どこにあるのかすらわからないかもしれない。なんか歴史の教科書で聞いたことがあるよな、くらいの地名。そう、アホな大阪のせいで、何度も歴史の陰に追いやられてきた巨大経済都市だ。

 むしろ、もともと大阪の方が、地べた自体からして存在していなかった。河内、と言うと、南大阪の方のように思うかもしれないが、本来、いまの東大阪のあたり、大阪城から生駒山まで、全部が河内池。大阪、難波としてあったのは、大阪城から天王寺を抜けて仁徳陵にまで至る、南北に細長い上町台地だけ。奈良盆地から流れ出てくる大和川は、この上町台地に遮られて、北の河内池に流れ込み、大阪城の東側あたりで、京都からの淀川に合流していた。

 堺は、この上町台地の南端にある天然の良港で、縄文・弥生の時代から、九州と繋がる瀬戸内海、さらには半島や中国との国際貿易を開き、絶大な繁栄を修めていた。そして、ここから東へ竹内街道を越え、明日香村の大和朝廷に繋がる。その後、京は奈良、京都へと北に移っていったが、瀬戸内海と世界の窓口としての堺の重要性は変ることなく、鉄砲を握る強力な環濠自治都市として独立を守り、伴天連に「東洋のヴェネチア」とその美と繁栄を称えられ、織田信長とも張り合うほどだった。

 しかし、これが運の尽き。豪商たちはみな秀吉に大阪城下への移住を命ぜられ、千利休なんか、さんざん利用されて切腹。おまけに、犬公方、綱吉の時代、天変飢饉が続いたせいで、河内池跡の沼地の治水開拓のために、1704年、上町台地を分断して運河が拓かれ、大和川が西流れに付け替えられる。これによって、堺港が奈良から流れ出てくる土砂に埋まり、陸路も北の大阪とは新大和川で切り離され、堺は大きく力を削がれてしまう。それでも、堺は、和泉や河内の豊穣な後背地を持ち、直轄領・旗本領としてかろうじて経済的地位を保った。

 廃藩置県に際しては、堺県として豊後高田の小河一敏が県知事となり、現在の奈良県全域までをも含む広大な地域に善政を敷き、独自の県札を発行して、治水や養蚕での経済振興に努めた。しかし、このように斬新な積極政策は、下級武士出身ばかりの明治政府には理解できるものではなかった。小河は罷免され、経済破綻している大阪救済のために、堺県はわずか12年で廃止、1881年に「大阪府」に飲み込まれてしまう。ところが、この「大阪府」は巨大になりすぎ、1887年に奈良県を分離。このせいで、堺は、竹内街道を介した古代以来の奈良との重要な繋がりも断ち切られてしまう。(奈良も、四方の出口を塞がれ、内陸部に押し込められた。)

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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